「俺の葬儀はいいから供養として頼朝の首を供えよ」的な(?)高熱も朝には治まり、その後片付けやら雑用やらをこなしていました。昨日会いそびれた友人にわずかながらでも会えたのは嬉しかったですね。
そしてまだやってたのかって話なんで須賀、ヨーロッパ旅行記に手をつけてみました。そこで思ったことなんですけど、やっぱり私の読点*1の使い方ってちょっと違いますよね、って自分で言うのも変で須賀、一方で新聞記事を書きながらこういうところでいつも通りにやっていると、それをより強く感じるようになりました。
教科書とか新聞記事とかに載っている(のが典型的とされる)「ちゃんとした文章」って、読む側が読みやすいように、具体的に言えばその一文の構造と意味を理解しやすいように読点が打たれていて、もっと言えば、読む側が気持ち悪くならない程度の長さで一文が終わっているんですね。ただここで私が書いているのは基本的にそうではない。それなりの長さの文に下手すると一つも読点がなかったり、二つ三つの文に分けられるものをそのまま読点でつないだような形になっているものがある一方で、わざとらしく、まぁわざとなんで須賀(笑)、一文節くらいで読点を打ってみたりもします。ていうか冗長ですよね、ここの文章ってwww もともとはバリバリの常体で「ところがでもしかし」的な接続詞を連発するような書き手だったはずなので須賀、このブログを始める時に何を思ったのか、こういうひとりごとを延々としゃべくるような文体を使い始め、今では仕事とプライベートで使い分けるような状態が続いています。って言ってもたまに「お前の読点の打ち方はいつもおかしい気がするぞ」なんてご指摘を賜ったりするので須賀w
こういう文体にしてみた*2きっかけが何だったか、今の時点から詮索してみてもどこまで「正解」に近づけるかは疑問なのでそこは置いておくにしても、いま私がここに書く文章で(少なくとも意識の及ぶ範囲内で)最も意識しているのは、私自身の息遣いです。何を勝手なことを、って感じで須賀、実際そうなんです。自分がそれを喋っているところをなんとなく思い浮かべて、早口でまくし立てているような部分には読点はつけずにそのまま流し、ふっと息を継ぐだろう場面だったり、話を聞いてくれている人の顔色を一瞬窺うような場面で読点を打つと。そういう私の息遣いをなんとなく表現できたらな、ということは結構真面目に意識して書いています。
そんなことしたって、それがそのまま読む方に伝わることを期待するべき*3ではないことはわかっているつもりです。それでもまぁ、どの方法が真意がより正しく伝わるか、という「議論のレイヤー」*4とはまた別の意味で、文体を含めた表現を気にしてみるのもいいんじゃないかと思っています。やってる個人の言い訳としては、こっちの方が新聞記事の言葉遣いなんかよりイキがいいと思いますし、それが「ちょっくらひとりごとに返事でもしてやるか」という気持ちにつながるのだとすれば、ブログという媒体には悪くない気がするんですよね。
…うわっ、こんな長くなっちゃったww