態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2006/04/01
- メディア: 新書
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なんか前振りが仰々しくてこれもまた申し訳ないんで須賀、一言で言うと何か、ここ数年多少のことについて喋りそして文章を書いてくるなかで、私が失ってきたスタイルの成功例のようなものを見せつけられたような気がするのです。それは大きく分けて二つあります。
まず、彼が「私の中で『他者』が話している」と言った、その感覚です。彼はいくつかの文章の中で、自分自身も「自分で始めた話がどこに着地するのか分からないまま手探りで話」すことの身体的な響きを強調し、そして「私が自分自身について知りたいときには、これから一体何を言うのかわからないままに読者に向かって語り始めなければなりません」と言い切ります。もちろん私がそんな理屈に思い至るハズはないので須賀、「自分で始めた話(文章)がどこに着地するのか分からないまま手探りで話」す(書く)ことの快感、それは十分に感じながら生きてくることができました。というより、私が下手な文章を書くことが好きになったきっかけは
しかしまぁ、限られた講義時間の中で発言したり質問したりする時にそれをやるってのもなかなか顰蹙な話ですし*5、文章を書くメディアも高校時代の薄汚い大学ノートからこういった形のブログに変わった以上、迂闊なことは書けないという意識を(これでも)強く持つようになってしまいました。ですからなかなか、そういった「穏当な発言者」*6という檻の中で、「オチの見える(見えやすい)」発言や文章を心がけてきた側面は大きいわけです。
とはいえこうしてその楽しさを思い出し、そしてその免罪符(?)を獲得した以上は、その檻の外で発言するタイミングを模索していきたいと思います。そもそもこのブログは第一義的に私のメディアですから、他の方々を不当に貶め、あるいは社会的不安を煽る*7ような発言を避ければひとまずは問題ないはずです。どのくらいの人に、どんな気持ちで読んでいただけるブログにしていくかはその後の問題でしょう。と開き直って、書いていて楽しい文章を、そして楽しく読んでいただける文章を書いていければと思うことにしましたし、この本によればその両立は可能であるらしいのです。一方で喋る方については、酔った時の議論は割合そんな感じだと自覚していますw まぁその辺は空気を詠みながらですかねwww
一つ目に意外と大きな分量を割いてしまったので須賀、次は手短にいきます。二つ目は、彼が常に興味深い仮説を立て、それを検証しながら議論を進めている点でした。長嶋茂雄と寅さんの国民的人気に天皇制の刻印をみるエッセーなんかに顕著なんで須賀、彼の大胆な着想とそれを支える傍証的な知識の豊富さには感心されられることがしばしばでした。
別に昔そうだったと言いたいわけではありませんww 昔の自分の書いたものを見返してみると、大胆なつもりの仮説が、ありがちなステレオタイプに支配された「○○批判」に過ぎなかったり、たまに面白いことを考えていても傍証が圧倒的に不足していて、ちょっと調べれば反例がすぐに見つかってしまうようなお粗末なものばかりで、昔のものと断っても到底ここに出せるような文章たちではありません。ただ大学に入り、いろんな人と話して多少のことを知ることでそのことに気づいてしまった私が、そういったある種の「
さて、ここまで長々と、歪んだ形で肥大化したくだらない物書き根性を陳列してきてしまって今ちょっと後悔していま須賀、これを消す気はありません(笑) なぜならば、この文章これ自体が、恐らく相当久しぶりに書いた「自分で始めた文章がどこに着地するのか分からないまま手探りで書かれた」ものであるからです。その意味でも、テキトーな文章を書き、ペチャクチャくっちゃべること本来の楽しさを思い出されてくれたこの本と、その著者には感謝したいと思います。そして最後は、この本のなかの一節を少しパロって終わりにしようと思います、かなりオーバーな話かもしれませんがw
「おい、そこの君。」
私は思わず返事をしてしまった。
「え、ぼくですか?」
「そうだよ、君だよ。君にちょっと用があるんだ。」
こうして私は内田樹という物書きに「出会って」しまった
……のかもしれないwww