かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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就職活動化するオンラインコミュニケーション/『何者』(朝井リョウ)

何者

何者

一杯喰わされたなwwwwwww
それが、率直な感想です。恐らく、読み終えてそう感じた方も少なくないのではないかと思います。そしてその瞬間、自分自身を省みてヒヤっとしたのも私だけではないでしょう。私自身は、「確かにそういう人間的性質のベクトルがあるのは分かるけど、ちょっと役作りが誇張されすぎてない?」と感じながら読み進めてはいたので須賀、まあそういうことなら、著者がそういう味付けをしたのもむべなるかなという気がします。それを含めて弁解チックに言うなら、一歩進んでそうした「立ち過ぎているキャラ」は、一人の人間のさまざまな側面を戯画化しているという風にまで読んでもいいんじゃないかという気はしました。多かれ少なかれ、これらのような性向がある人も多いんじゃないの?ということです。
そしてまた、そうした登場人物の描かれ方という点は、まさに周りから自分が何者に見えるか/見せるかという、このお話の主題の一つとも関わってきます。自分をどう見せるかという問題は、140字という字数制限を持つtwitterを典型例とする、オンラインメディアが発達しつつある今、独特の重要性を帯びてきていると言うことはできま生姜、それはまさに当然のことながら、自分がどう見えるかという問題が多面化したことをも意味しています。自分を何者かに見せようとする力みが「痛い」と嗤われる、というのも、その文脈で理解できるでしょう。そしてまた、「多面化」した問題の他の面は、例えば作中ではこう表現されています。

「だって、短く簡潔に自分を表現しなくちゃいけなくなったんだったら、そこに選ばれなかった言葉のほうが、圧倒的に多いわけだろ」

「だから、選ばれなかった言葉のほうがきっと、よっぽどその人のことを表してるんだと思う」

制限された枠の中で自分を「何者」かであるかのようにアピールすることと、そこには現出しなかったことが表す(幾ばくか、ないしそれ以上の)その人の人となり。その問題意識は、twitterFacebookといった場でのコミュニケーションのみならず、このお話の「舞台」と言うべき就職活動にも当てはめられます。面接試験なんてまさにその通りです。
現実問題として、そのプレイヤーという点からも親和性が高い世界ではありま生姜、著者がこの物語の中で描き得たことの一つは、twitterなどでの立ち居振る舞いが就職面接でのそれのようになる*1「(オンライン)コミュニケーションのシューカツ化」とでも言うべきものだったのではないでしょうか。
まるでツイートのような語りとの対比。ラストシーンに救いを求めるなら、そういう風に眺めてみるのがよいのではないかと感じました。

*1:まあ実際は疑似的な関係なので生姜