かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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在日 (集英社文庫 か 48-1)

在日 (集英社文庫 か 48-1)

そのものズバリ、という感じの生姜先生の自伝です。彼がいつどこで生まれ、どんな環境の中でどのようなことを考えてきたのか…ということを振り返った一冊で、生姜ファンの一として楽しく読むことができました。彼の個人的な経験という色眼鏡を通じて世相を見るというのも面白かったですし、そもそも時代の雰囲気というのはそうやって切り取っていくもののようにも思えます。
さてさて、話の中で特に印象深かったのは、彼の在日二世としての立ち位置です。作中で彼は何度も、父母やその仲間たちがつくる「一世たちの世界」への親しみと郷愁を語り、「あの「在日」の日々に戻」ることを夢見もしています。しかしその一方で、自分は彼らと完全に同一の存在だとも思えないでいる。「彼らと本当に出会っていたわけではないのではないかという忸怩たる思い」と常に隣り合わせに、「在日一世が生きた意味を考え」ているというのです。一世への思いについてだけではなく、大学時代のエピソードや当時起こった事件への思いなど、様々なところに在日「二世」という「立場」の機微が表れていると思いました。
ただ、自分の父母やその近親者が生きた意味を考える、という感覚は私にはちょっと理解できませんでした。だって人が「生きた意味を考える」ってことは「生きた意味はありませんでした」という結論を得る可能性を論理的に孕んでいるわけですから。
そしてもう一つ。彼は「在日」として、その時の自分の個人的な境遇も「在日」と結びつけて話を展開していたので須賀、そこは分かるような分からないような気持ちです。確かにこれまで「在日」と呼ばれてきた人びとが置かれてきた厳しい環境ゆえ、自分の境遇ーそれがいいものであってもよくないものであってもーを「在日」に結びつけて考えるようになったのだとすれば、それに私のような外野の人間が偉そうにケチをつけることは大いにためらわれます。ただその一方で、彼が「在日」というカテゴリにのみ属しているのでなければ、「在日」なら、少なくとも同じ「二世」なら一枚岩かと言われればそうではないでしょう。最近朝日新聞の夕刊に連載されていた「「在日」という未来」では、映画監督の崔洋一さんがこう言っています。「在日60万人、それだけ顔があり、それだけ人生がある。もうひとくくりにするな」。逆に「在日」や「二世」という属性に、言わばある種の共通性のようなものを求めるとすればね、ちょっといいですか、森本さん、まだしゃべってるよ(ry生姜先生の視点からは、「一世の生きる意味」的な議論もつながらなくはない気がしますし、最初に「そのものズバリ、という感じの生姜先生の自伝」と言ったのも、その辺を意識してではあります。だってそもそも彼は「在日」である前に「姜尚中」ですからねw