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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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集団的自衛権/事例より立憲主義を論じよう

集団的自衛権>解釈変更の是非 法制懇での議論になし
安倍晋三首相は15日の記者会見で、これまで政府が「行使できない」と説明してきた集団的自衛権の行使について、憲法解釈の変更で容認する方向へとかじを切った。日本の安全保障法制の基盤である憲法9条憲法改正することなく、解釈で変更すれば、今後も時の政権の判断で恣意(しい)的な変更が行われる可能性が出てくる。憲法によって権力者を制限する立憲主義も大きく揺らぐこととなる。
政府はこれまでの憲法解釈で、外国から武力攻撃を受けた際に日本を守るための「必要最小限度」の自衛権行使を認めてきた。一方で、他国への武力行使に反撃する集団的自衛権の行使は、その範囲を超えるとして「憲法上許されない」と答弁。集団的自衛権の行使を容認するには憲法改正か、解釈変更が必要だった。
憲法改正の発議には、衆参各院で総議員の3分の2以上の賛成が必要で、国民投票により過半数の賛成で改正に至る。改憲手続きのための国民投票法改正案は今国会で成立の見通しとなったものの、9条改正のハードルは国会でなお高い。首相が早期の集団的自衛権行使容認を目指すなら、解釈変更しか選択肢がなかった。
しかし、解釈変更に向けた今回の手順は恣意的な側面が否めない。首相に15日に報告書を提出した私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)は、集団的自衛権の行使容認を憲法解釈変更で行うべきだとする有識者らで構成。法制懇では憲法解釈変更の「是非」は当初から問われておらず、議論は「集団的自衛権の行使をどこまで認めるか」を中心に続いてきたのが実態だった。
安保法制懇座長の柳井俊二元駐米大使は15日の記者会見で、憲法改正で対応しない理由を問われ、「今の憲法9条を素直に解釈すれば集団的自衛権は認められるし、国連の集団安全保障に参加することも認められる」と述べ、憲法改正は必要ないとの認識を強調。一方で「憲法改正規定は大変難しくできていて、現実的には不可能に近い」とも語り、憲法改正では時間がかかるとの本音ももらした。
憲法解釈の変更を選んだ安倍政権の姿勢について、元内閣法制局長官の阪田雅裕氏は「過去に積み上げられ、世の中に定着した憲法解釈を、時の内閣が変えることは立憲主義の否定だ。時代が変われば憲法を好きに解釈していいとなれば、その条文は存在しないのと同じ」と批判。小林節慶応大名誉教授(憲法学)も「(集団的自衛権を行使できないという)憲法の『枠』を超えてしまったら、解釈とは言えない」と批判し、憲法改正で対応するよう求めた。【木下訓明】
(5月15日、毎日新聞)

敢えて言いましょう。この際、首相が挙げた2事例だとか、日本が集団的自衛権を行使すべきかどうかは置いておきましょう。どうでもいい、とまでは言う自信がありませんが、隅に置いておいても構わない(そもそもそれが国政喫緊の課題でしょうか?)。
この話で一番ヤバいのは、立憲主義が蹂躙されつつあること、つまり、一般市民に対して超強力な強制力を持っている国家権力そのものがルールを無視し始め、野放し状態になりつつあることです。
憲法というのは、市民一人一人が「親を殺した相手を曽我兄弟のように仇討する」ことをやめ、その「権利」を国家に委ねる代わりに、巨大な権力を持つことになる国家はルールで縛りましょうね、という考え方(立憲主義)でできているものです。乱暴に言ってしまえば、日本では市民が拳銃を持ったり、3Dプリンターで造ったりすることは認められない反面、拳銃を持った警察官が市民を守ってくれることになっており、またその警察官が暴走しないように彼らを憲法を頂点とするルールで縛っている、そういう関係なわけです。なのにもし―あくまでも仮定の話で須賀―、その警察官たちが実力装置を持っているのをいいことに勝手にルールを変え(例えば「気に入らん奴はいつでも撃ってよし」)、またはそれを破棄してしまったら、丸腰の市民たちはいつ、彼らに撃ち殺されるか戦々恐々としながら過ごさねばなりません。現実に、警察を軍隊に読みかえれば、世界にはそういう状態にある地域もなくはありません。
このように憲法は、万が一にも権力が暴走してしまわないように、言わば権力から市民の身を守るためにあるルールであり、武器です。これを市民の側から変更することこそあれ、憲法によって縛られている側の権力が一方的にそれを変えてしまったり、勝手に違う意味に解釈したりしてよい、ということになれば、その憲法は権力者を縛っていることになるでしょうか? そもそも、存在する意味がありますか? 引用記事の末尾のコメントは、そういう意味です。そうなってしまえば、市民は暴走しないように歯止めをかけるすべのない権力からどうやって自分の身を守ればいいんでしょうか?
その前提で、今日、首相が言ったことを見てみましょう。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140515/k10014484051000.html
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140515/k10014484301000.html
首相は「憲法解釈を変更して、集団的自衛権を限定的に認めることについて検討しましょうよ」と言っています。集団的自衛権は、これまでの政府の憲法解釈では明確に認められなかったものです。検討して、それを変えようという話です、閣議決定閣議決定で変えるということは、特定秘密保護法の時のように、国会で多数決を取ることもしないということです。閣議に出席する閣僚の任免権は首相にあるわけですから、万一土壇場で「反対!」と叫んだ人がいても、その場でクビにしてしまうことができます。要するに安倍首相は、「どんなに議論をしても、最後の決定権はオレが握る」と宣言しているのです。
極論すれば、今の日本国憲法は、現在、日本の最高権力者である安倍晋三さんが勝手なことをしないように存在しています。こともあろうにその安倍さん本人が、「最終的にはオレの一存で憲法を変える」と言っている。そんなことが許されるなら、何でもアリになっちゃいませんか?
そういう心配をしているのです。じゃあ、首相がその懸念に対して何と言っているか。
立憲主義にのっとって政治を行っていく、当然のことであります。そのうえにおいて、私たち政治家はこうしたことができないという現状から目を背けていていいのかということを皆さんにも考えていただきたいと私は思います」。
たったこれだけでは、何も答えていないに等しい。むしろ、そうやってまともに答えず、触れないことによって、「憲法解釈変更によって集団的自衛権を一部容認すること」が、安全保障の問題であると同等かそれ以上に立憲主義の問題であるということ、もっと言えば、そうすることで一人ひとりの人権が権力の恣意によって脅かされる世の中にさえなりかねないことから、人々の目を逸らさせているのではないかとすら考えてしまいます。少なくとも、そういう効果があることは間違いないでしょう。
他にも書きたいことや、書きかけたことはたくさんあるので須賀、本稿はこのくらいにしておきます。安全保障以上に、市民の権利が守られない世の中になるかもしれない、そっちの問題として考えるべきです。どうしてもやりたいのなら、権力移譲の代わりにルール(憲法)を設けた国民に信を問うべきです。
 
最後に一つだけ。この記事では立憲主義をほぼ唯一の立脚点に話を進めてきましたが、安倍首相やその周辺の政治家・学者らが、この国家権力に関する基本的な考え方を実のところでどう理解し、価値判断しているのかは興味のあるところです*1。ただ、その中に北岡伸一先生を含めて考えなければいけないのは個人的に非常に残念です。どういうお考えなのか、それでもこれは、いかに「3類の壁」と学生に恐れられた(笑)先生としても、申し開きが出来るとは思えませんけれども。

*1:理解できていないのか、理解していても重要でないと思っているのか