かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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最近はこんなのばっかり見ていますw 見ていて気付くのは、やはりマイケル・ジャクソンのステージの完成度の高さですね。どのステージでも大体ムーンウォークするタイミングや前後動作も似通っていて、まさに一つの作品を見せてもらっているという感じがします。

それこそ彼の「ショートムービー」とも呼ばれた完成度の高いPVも同じことなんでしょうね。

この人とは好対照な気がします。肉じゃが自重しろwwwww
あと一つ思ったのは、こうやってyoutubeニコニコ動画だでいろんな映像がいとも簡単に見られてしまう今、私たちはスターの死というものをどうやって感覚として受け入れればいいんだろうかということです。これは忌野清志郎の時にも思ったんで須賀、youtubeで彼らの生前のステージを見れば見るほど、彼らが死んだということが感覚で分からなくなってくるんですね。テレビで死んだ死んだって言ってるけど、「あこがれの北朝鮮」で検索すれば清志郎は歌い出すし、マイケルと打つだけで「マイケル ムーンウォーク」なんて検索予測が出てくる。
たとえスター本人が灰になっても、「そこにいる」感覚。ここでこれをyoutubeのせい*1にしてみるのはどうでしょうか? 個人的な体験で言えば、いかりや長介が死んだのは感覚として割と受け入れられているので須賀、そう言えば当時の私はyoutubeを積極的に利用する環境にはありませんでした。そんなとき「もう一度いかりやを見たい」と思えば、テレビの前に座り込むのが一番手っ取り早い手段だったように思います。ワイドショーあたりが「追悼」と称して彼の一生や出演映像を延々と流していましたし、確かドリフの追悼番組もありました。じゃあyoutubeと同じ「生前のいかりや」を見ていながら、なぜ私は彼の死を感覚的に所与のものとできたのか。それはやはり、それらのテレビが「死んだ、死んだ。ご冥福を(ry」と叫び続けていたからだと思います。「死んだ人」として紹介するテレビや新聞と、そんな文脈なしで見られるyoutube。その違いが死に対する感覚的な反応を分けたのではないかと、少なくとも私自身については思います。
そしてここで連想するのは、スターという存在とマスコミュニケーションとの親和性です。それはもちろん(規模の大きな媒体を通じて)みんなが知ってないとスターじゃないよね、ということでもあり、(限定された媒体から情報を得ることで)イメージがある程度コントロールされ、*2物語性を帯びている*3のがスターだよね、ということでもあると思うので須賀、ではマス媒体の地位を相対化しながら必ずしも文脈的でない情報を提供する「youtube的なもの」を前にスターの死という現象が、もっと言えばスターという存在そのものがどう変化していくのか、完全に個人的な実感による議論ながら興味なくはないんですけど
追伸。途中のいかりやの例で、いかりやを見たいならTSUTAYAにドリフのDVD借りに行けよ、と突っ込んだ方もいらっしゃると思いま須賀、この議論においてはそれもyoutubeに近いものとしてとらえていいんだろうと思います。ただしそこには「スターいかりや」の物語性を剥奪するような断片はなかなか見つからないでしょうし、ちょっと気の利いたお店なら、DVDはいかりやの「追悼コーナー」に並んでいるでしょう。

*1:別に悪いと言っているわけではありません。そしてここでのyoutubeはもちろんニコニコ動画に置き換え可能ですし、もっと言えばインターネット全体と言うこともできるかもしれません

*2:この部分に「ゆえに」と「かつ(送り手が文脈を重視するので)」の二つの接続詞を入れたかったです

*3:たとえば長嶋茂雄王貞治より一般的にスターたり得たのはこの部分なんだと思います