かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

アニメやギャルゲーなどのいわゆる「オタク系文化」やその消費様式を、70年代以降のポストモダン社会の特徴と重ね合わせて論じた本です。
ボードリヤールの「シミュラークル」論やリオタールの「大きな物語」論など*1に準拠しながら、萌えの対象になっているキャラクターを、もはやオリジナルではなく一つのシミュラークルとして消費する「小さな物語」への欲求と、それらを要素に分解し集積したデータベースを手にいれ、二次創作に興じようとする「大きな非物語」への欲望の二つが別個に共存する「解離的」心性に、オタク系文化のポストモダン性がある、と豊富な事例をもとに論じています。その部分の立論が非常に具体的で明快で、そういったオタク系文化にそうなじみのない私にもとてもよく分かったので須賀、その一歩先の話がピンときませんでした。彼は、コジェーヴの言うとおりポストモダン化した社会で人間は「動物化*2」しており、オタクの行動も動物そのものだ、と述べていて、彼らの社交性や「保守的なセクシュアリティ*3」に動物的な特徴が出ている、と主張しています。ただ、奇しくも彼自身が言っている通り、オタクの社交性の問題が「オタク系文化にかぎらず、九〇年代の社会を一般に特徴づけてきたもの」であるなら、「オタクの動物性」を叫ぶことにどのくらい意味があるのかよくわからなかったのです。オタク系文化がポストモダン的で、ポストモダン社会で人間が動物化していることには私は納得していて、であればポストモダン社会を生きる人間の部分集合であるオタクたちも、それ以外の人々と変わらない意味で動物化していると言いたいのならそれは結構なので須賀、オタクたちをポストモダンの寵児とみなし、それ以上の動物性をオタク系文化に付与しようとしているのなら*4その部分はうまくいかなかったかな、という気がします。ついでに言うなら、オタク系文化の日本への執着は敗戦のトラウマゆえだ、というのも、話としては面白いんで須賀推論の域を出ない印象を受けました。
それにしても2001年のサブカルチャーについて書かれた本を今呼んで「へぇー」とか言ってるのも情けない話ではあります。『YU-NO』とか全然知りませんでしたが、マリベルドラクエ7も似たような分析ができますかね。あと、もし8年後を生きる私が付言できることがあるとすれば、今は「オタク」とはあまり言わないかな、ということです。少なくとも私の言語においては、この本は「オタク」ではなく「アニヲタ」をメインに扱った本で、「専門的愛好者」くらいの意味で「鉄ヲタ」「歴ヲタ」「モーヲタ」などと呼ぶことが多いように思います。じゃあ「鉄ヲタ」や「歴ヲタ」たちに、この本の議論がどう通用していくのかあるいはいかないのか、考えてみるのも面白いかもしれません。感触から言えば「オタク」という言葉は同じでも指すものはちょっと違うのかなという気がするんで須賀、それを言うにはそもそも彼らの消費様式から勉強しなきゃいけませんね。

*1:あとコジェーヴも入れなきゃだめですかね

*2:動物的欲求の欠乏と充足の繰り返しによって人間の生活が営まれること

*3:アニメのロリキャラに萌えている人でも、現実世界の幼女に萌えるかというとそうでもないこと、とされています

*4:そうなんだろうという理解のもとで話しているので須賀