- 作者: ドストエフスキー,米川正夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1951
- メディア: 文庫
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まさに世界規模で読まれた小説と言ってよいこの『罪と罰』について逐語的に論じても、読んでいる方も書いている方も面白くないと思うので今回はそれはしません*1。ただ一つだけ印象的だったことを挙げるなら、それはこれも世界中で人気を博しているマンガ『デスノート』の夜神月(=キラ)との異同です。月も自分がデスノート*2で犯罪者を殺し続けることで犯罪のない新世界を創ることを目指し、ゆくゆくはその「新世界の神」たらんと「キラ」としての犯罪者殺しを続けました。しかし彼は次第に、キラ捜しの追っ手から逃れるために犯罪者以外の人間を殺すことも厭わなくなり、最終的には捜査側との知恵比べに負けて死んでしまうのでした…ってまたバラしちゃいましたが(汗)、そんな月とラスコーリニコフの相似性と対照性の双方が、この『罪と罰』を語る上においても非常に興味深い気がするのです。
ラスコーリニコフも月も、自らが凡人達の道徳や法律を踏み越えることのできる「非凡人」であることを信じ、そのために行動した点は共通しています。しかし月はそのまま凡人と非凡人の境界を踏み越え、ためらいもせずにその先へと進んでいった一方で、ラスコーリニコフにはそれができなかった。彼は犯行後に、無意識的な罪の意識や真犯人が露見することへの恐怖におびえ続ける「凡人*3」としての自分を発見せざるを得なかったのです。その意味での相似と対照、つまり、ラスコーリニコフと月が共有した理論の「非凡人」性と、その後の「凡人」としてのラスコーリニコフの心の動きが、『罪と罰』の世界の大きな柱となっていると言っても過言ではない気がします。
『罪と罰』が書かれ、まず読まれたのは、ロシアにインテリゲンツィアが台頭し、従来の理想主義的人道主義から唯物的な功利主義への価値の転換が叫ばれた時代でした。そして社会そのものも、「いまどき、誰が平民で誰が士族か、そんな見分けがつくもんか」という作中の若者の叫び声が聞こえてくるような、そんな状況だったのだと思います。その中で理論と人間性の間を彷徨うラスコーリニコフの姿がよく読まれたのだとすれば、近年の『デスノート』の発表とその人気、あるいはロシア文学の再流行*4は何を示唆するのかしないのか。このニュースのなりゆきを見守りながら考えていきたいと思います。
<デスノート>切断遺体そばに「キラ」の名 ベルギー
【ブリュッセル福原直樹】「ワタシハ キラ デス」(Watashi Wa Kira dess)−−。ベルギー・ブリュッセル市で発見された切断死体のそばに、日本の少年誌「週刊少年ジャンプ」(集英社)に連載された人気コミック「デスノート」に登場する殺人犯「キラ」の名をかたるメッセージが残されていた。同国の司法当局は殺人事件とみて、メッセージとの関連を調べている。
欧州では日本のコミックが人気を集め、「デスノート」も翻訳版が出版されている。
捜査にあたる同国のコルパン司法官によると、死体の一部が発見されたのは9月28日夕。同市西部の公園で通行人が胴と足の一部を発見し、ローマ字の日本語で書かれたメッセージが近くに残されているのが見つかった。
ローマ字のつづりは一部間違っている。被害者は白人男性の可能性が高い。コルパン司法官は「(日本のコミックに関する)メッセージがあったのは事実だが、事件との関係性は不明だ」と語り、今後関連性を捜査する方針を示した。(10月3日11時56分配信 毎日新聞)
P.S.ドストエフスキーの著作の詳しい解釈については地下室の疑問さんにいろいろ載っているので興味のある方はご覧になっては?