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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)

うんざりするほどツッコミどころの多いまさにトンデモ本です。生姜先生のレポートのダシに使ってやったんで須賀、そのレポートは自分の名前で提出されな…宇和何をするくぁwせdrftgyふじこlp;@:「」
えい、貼っちゃえwwwってことで以下ほとんどそのままコピペしま須賀、やや論理的な詰めが甘い*1文章なのでその辺は大目に見てくださいorz

 今、なぜナショナリズム 〜『国家の品格』の品格〜
今、なぜナショナリズムか― 今それを問うことは恐らく見当外れではあるまい。半世紀にもわたる漸進的な政治・経済的統合を経てEUという超国家的な枠組を形づくり、またそれを拡大・深化させてきたヨーロッパで近年、先のフランス大統領選におけるいわゆる「ルペン・ショック」やオランダでのEU憲法否決運動とその結実などに見られるような排外的ナショナリズムの発露が見られるようになってきている。また日本においてもここ数年、「ナショナリズム」という単語やその言説がますます人口に膾炙しているように思える。
このような状況の中で、実際に流布しているナショナリスティックな言説を具体的に検証することは決して無益でないだろうし、それが受け入れられている社会の様相を知る大きな助けになるだろう。そこで私は、昨年末から100万部を優に超える売り上げを記録し、この講義でも何度か言及のあった藤原正彦氏の著書『国家の品格』を読み、そこで展開されている日本論・日本人論を中心とする言説を批判的に検証することを通じて、この本が多くの読者に読まれ・受け入れられた背景に迫っていきたい。
恐らくそれは、冒頭の「今、なぜナショナリズムか」という問いにもつながってくるだろう。

その前にまず、近年の日本においてナショナリスティックな言説が台頭し、また受け入れられるようになった原因とその過程について、講義の内容などを参考にしながら私なりにまとめてみたい。まずこれは先進国の多くで見られた事態だが、1970年代中葉以降、各国の福祉国家体制に大きな変容が見られるようになった。この福祉国家体制は、フォーディズムに起因する第二次世界大戦後の「黄金の30年」と呼ばれた世界的な経済成長の中で形成されたもので、コーポラティズムと連動して国家による所得保障や社会サーヴィスが国民の権利として保障される体制のことを指すが、この体制が70年代の二度にわたる石油危機や各国の高度経済成長の終焉、経済グローバリズムの萌芽などの諸要因によって徐々に変容していった。79〜80年のイギリスにおけるサッチャーアメリカにおけるレーガンの登場はまさにこの福祉国家の変容のメルクマールと言うことができるだろう。もちろんこの変化やこれ以降のグローバル化の進展が、エスピン・アンデルセンらが指摘するような福祉国家の様々な形態を一つに収斂させたと見るのは早計だが、この時少なからずの国家で言わば「生命政治からの撤退」が選択されたことは間違いない。講義の中で「ノイローゼ国家」と指摘された、民主党政権であるクリントン政権自由主義的「ニュー・エコノミー」政策などはこの流れの中に位置づけられるだろう。
このようにしてグローバル化の圧力の中で「ノイローゼ国家」化し、「生命政治からの撤退」を余儀なくされたいくつかの国家では、国家の求心力維持のために治安維持の強化が推進される一方、ナショナリスティックな言説が多く流布する。また一方で、国家による福祉から切り離され、かつ社会とも強いつながりを持たない言わばアトム化された人々―その少なからずが社会経済的ステータスの低い若年層であると指摘されている―が、その代替としてのナショナリズムに走る傾向がある。これは、インターネット上のいわゆる「嫌韓・嫌中」的な掲示板に「貧しさ」を中傷する言葉がほとんど見られないことからも示唆されるといわれている。このように、70年代中葉以降の福祉国家体制の変容が、いくつかの先進諸国の排他的ナショナリズムの構造的な要因となっていると言えるだろう。
また日本のナショナリズムを考える際、ほぼ時期を同じくして起こった東西冷戦構造とバブル経済の崩壊を無視することはできないだろう。敗戦後の「瓦礫の中から」の驚異的な復興と高度経済成長、そして二度の石油危機をも乗り切って”Japan as No.1”とまで言わしめた80年代…この過程で培われた日本の「経済ナショナリズム」は、バブル経済の崩壊とその後の経済的低迷により大いに傷ついてしまった。その一方で東西冷戦の終焉とそれに連動して起こった日米同盟の変質は、それまでアメリカに言わば「肩代わり」させてきた政治的なイシューへのコミットメントを日本に強いることとなり、ここにナショナリズムとしては本来的ともいえる「政治ナショナリズム」噴出の素地ができあがった。
そして近年目を見張るスピードで経済成長を続け、また政治・軍事的にも更に大国化して日本とも様々な問題で利害の対立が顕在化しつつある中国や、政治的民主化を達成しIT化では日本に先んじたと言われる韓国などが、日本の地域的・経済的な優位に対する具体的な「脅威」とみなされるようになったのも90年代である。このように「経済ナショナリズム」的言説が力を失う一方で「政治ナショナリズム」噴出の土壌が整備され、また中韓という具体的脅威が認識されるようになった90年代以降の社会的状況が、現在の「嫌中・嫌韓」に特徴付けられる日本の排他的ナショナリズムに直結していると見ることができるだろう。

では、前置きが長くなったが、そのような文脈の中で現れ、多くの支持を得るに至った藤原正彦氏の『国家の品格』の言説とはどのようなものか。まずはその内容を簡単におさらいしてみよう。
近代のここ数世紀はまさに「欧米にしてやられた時代」であったが、近年先進国の多くで犯罪や家庭崩壊、教育崩壊の拡大といった社会的荒廃が目に付く。これは「論理を徹底すれば問題は解決できる」という「近代的合理精神」の破綻が露呈した結果である。①人間の論理力や理性には限界があり、②いかなる公理系を用いても正誤の判定が不能な命題が存在し、③論理の出発点は常に仮説であらざるを得ず、④論理の長さは信憑性を下げるから、論理だけではダメなのだ。近代社会の「論理の出発点」とも言える自由・平等・民主主義といった概念も、所詮はキリスト教的な神の存在なしでは説明できないフィクションであり、これに頼りすぎたことがよくなかったのだろう。一方日本人は、自然に対して繊細かつ鋭い感性を持ち、またそれゆえに独特の無常観、さらに一歩進んで「もののあわれ」という感覚―つまり「情緒」―を培ってきた。そのような「情緒」を育む精神の「形」が武士道精神である。このような「情緒と形」は、①それ自身が普遍的な価値を持ち、②文化や学問の創造に貢献し、③世界に出ても人間として敬意を払われるような「国際人」を育て、④人間の総合判断力を高め、⑤自然に対する人間の傲慢を抑制し、⑥戦争をなくす手段になるのである。このような「情緒と形」を日本人が身につけることが「国家の品格」につながり、それを保つことが我々が日本人として生まれた真の意味なのだ…
昨年末から持続的に売れ続け、今も書店の一番目立つ場所に山積みにされているベストセラー・『国家の品格』は、大雑把に言えば以上のような内容である。講演記録に加筆・修正する形で書かれた本であるため余談的な部分が多く、またそのような箇所を中心に基本的な事実認識の誤り・論理矛盾が少なからず見受けられたが、話の筋からやや逸れた箇所でともすれば揚げ足取りと誹られかねないような批判に終始することは、彼の信奉する「武士道精神」に反するばかりか私の本意でもないのでここではあえてこれを避け、あくまでもこの本での中心的議論の検討を通じてその「品格」を考えたい。
まずこの要約を読むだけでもお分かりいただけると思うが、この論理展開には一つの大きな断絶が存在する。それは一言で言えばこうだ。欧米の論理偏重主義に対するアンチテーゼとして「日本的な」(と彼が認識する)「情緒と形」や「武士道精神」が登場する必然性がない。そもそも今の先進国を悩ます諸問題が論理そのものの内包する問題に起因するのか、すなわち論理が論理たる論理的帰結なのかついても議論の余地があろうが、そこに目をつむるにしても彼がその代替品として持ち出した「情緒」や「形」、「武士道精神」の徳目がそれらの問題をどう克服するのかについて、彼はあまりにも寡黙である。西洋的な価値や枠組が孕む問題点が明らかになったとき、すぐにその解決を東洋的価値に求めようとする安易で二項対立的な一種のオリエンタリズムはそう珍しいものではないが、この議論もその範疇を超え出るものではないように思える。
次に指摘すべきは、彼の描く日本論・日本人論である。まず彼が前面に押し出すのは、豊かで繊細で、時に恐るべき力を振るう日本の自然と、それと共存してきた繊細で鋭い感性を持つ日本人、という構図であり、既存の日本論・日本人論と比較して特に目立った特徴はない、典型的な「逆オリエンタリズム」の発露と見るのが妥当だろう。ただ、「パックス=ジャポニカ」と囁かれたバブル経済崩壊以前の日本人論に多く見られるような、「日本人の強さ」を強調する論調が基本的に見られないのは、先にで論じたような「経済ナショナリズム」の失墜ゆえと読むこともできよう。
一方で注意せねばならないのは、彼の日本人論に潜むフィクション性である。では彼がフィクションと断じた西洋的な「神」のアンチテーゼとして挙げられた、「日本人の繊細さ」や「武士道精神」といった類の議論はノンフィクションかと問われればそれも疑わしいが、ここで挙げるのはその構造的な問題点とも言えるものである。即ち、これもまたこの類の日本人論としては珍しくないのだが、彼は日本人という存在の固有性や同一性というフィクションを何の疑いもなく信じてしまっている。以下に二箇所引用してみよう。

…一五〇〇年という年をピンポイントで見ても、統一されていた国さえ少なかった。イギリスも、ロシアも、イタリアも、ドイツも統一されていません。日本はとっくの昔から統一国家として存在していました。
…一つの解決策として私が提示したいのは、日本人が古来から持つ「情緒」、あるいは伝統に由来する「形」、こうしたものを見直していこう、ということです。

このような誤謬や日本・日本人の固有性というフィクションへの信仰が、近代国民国家形成の過程で半ば捏造された「物語」であることは、もはやベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』などの諸著作での議論を待たないだろう。藤原氏もそのような論点の存在を知ってか、ナショナリズム愛国心パトリオティズム=祖国愛、と定義しそれらを区別する態度をとっているが、自分の生まれた土地や自然、そしてそこの人々を愛するパトリオティズムがそもそも国家という単位を対象としうるのかについてはやはり疑問が残る。パトリオティズムが「郷土愛」から「祖国愛」へと押し広げられる、その現場に介在しているものこそ、「想像の共同体」たる国家の言説なのではなかろうか。
最後に気になったのは、彼が日本と比較し対抗心を燃やす対象が常に欧米である、ということだ。これが見られる部分はこの本の各所に散りばめられていて枚挙に暇がないが、特に私の目を引いたものをいくつか挙げてみたい。

…この十世紀間(五世紀〜十五世紀。筆者注)における文学作品を比べてみると、全ヨーロッパが生んだ文学作品より日本一国が生んだ文学作品のほうが質および量の面で上、と私は思います。
…私のような愛国者にとって、我慢のならない状況が続いていたわけです。ところが、待ちに待った欧米支配の綻びが、ついにやってきました。
…「なんでこんな奴らに戦争で負けたんだろう」と思ったのをよく覚えています。

特に最後のものなどはまさに噴飯ものといった感だが、このように彼は日本との比較の対象として常に「欧米」を選び続けている一方、近隣の中国・韓国への言及やそれらとの比較は圧倒的に少ないのだ。これは彼自身の経歴や、彼が現代社会の諸問題を欧米的な諸価値と結びつけて考えていることから考えれば全く理解できないことではないが、「嫌中・嫌韓ナショナリズムが主流となる中で、言わば中韓の「頭越しに」欧米に対して敵愾心を向ける彼の姿勢は特徴的だといえるだろう。恐らくこれが意図的に行われたと読むのは深読みのしすぎだろうが、結果として中韓という存在が日本のナショナリズムに関する言説空間に浮上する前と同じ、欧米向けの日本人論であり「逆オリエンタリズム」であるということは若い読者にはある種の新鮮さを、年配の読者には何か郷愁じみたものを与えたのかもしれない。
このように見ていくと、この本における日本人論に独創性があるとは考えにくい。ではなぜこれだけ多くの読者を獲得したのか。すでに示唆した部分も多いが最後にこの部分に触れ、このレポートのまとめにかえたいと思う。

前章で検討したように、この本で描かれている日本人像そのものに新しさはない。ではなぜ受け入れられたのか。私は二つの要因が考えられると思う。まず第一は、この本の「わかりやすさ」である。文体や話の流れも口語的でわかりやすいが、それ以上に欧米と日本、論理と情緒、神と武士道精神という短絡的なまでの二項対立の構造がわかりやすいと言えるだろう。本の中で彼自身が言うとおり、単純な論理はわかりやすく、受け入れられやすい。皮肉にもこれはこの本にこそ当てはまってしまうように感じた。
二つ目は、先にも扱った比較の対象の問題である。彼があくまで欧米を相手に日本文化や日本人の優位性を主張し、中韓特に中国を比較の俎上にも上げないことは、確かに意図されたものではまさかあるまいが、近年の「嫌中・嫌韓ナショナリズムの主要部分を担っているとされる社会経済的ステータスの低い若年層にとっては新鮮なものであったろう。さらに言うなら、このように近年「脅威」として「台頭」する彼らをあえて論ぜず、あたかも眼中にないかのような態度をとることで、その「脅威」に対してある意味で居直ることができる―少しうがった見方かもしれないが、日本のナショナリズムに関する言説空間に中韓という「新しい脅威」が浮かび上がり、「中国脅威論」や『嫌韓流』といった言葉が飛び交う中でこの本は、「日本の相手はあくまで欧米だ」という「自信」を与えたのかもしれない。
戦後日本のナショナリズムは長らく欧米向けの経済ナショナリズムであり、また一方で欧米におけるオリエンタリズムとある種の共犯関係にある「逆オリエンタリズム」とでも言うべきものであった。しかし、バブル崩壊以後の経済の低迷がその経済ナショナリズム冷や水を浴びせ、冷戦構造の終焉や近隣諸国の政治経済的台頭が、政治ナショナリズムという新たな「はけ口」を生んだ。そしてその主要な担い手は、80年前後から世界的に始まっていた福祉国家の変容による「生命政治からの撤退」で国家福祉から切り離され、また社会とも強い紐帯を持たない人々であった。こうして90年代以後の日本のナショナリズムの主流は、「中国脅威論」や『嫌韓流』などに代表される近隣諸国向けの政治ナショナリズムへと徐々に軸足を移していった…
この『国家の品格』で展開されている議論は、確かにこの流れの中でやや毛色の違うものであるだろう。だが、この本はちょうど鏡のようにその違いを写し取っているように私には思えるし、商業戦略という観点から見るならそこにこそこの商品のニッチがあるのだろう。そして何よりも、彼の論じた日本特殊論的な日本人論は、その他多くの日本論・日本人論に通底している。その意味でも、読みやすいがゆえに読みにくかったこの本を、腰を据えて読むことができたことはよかったと思うし、そのような機会を与えてくれたこのレポート、さらにはこの講義に感謝しつつ筆をおこうと思う。最後まで読んでいただきありがとうございました。

<参考文献>
藤原正彦国家の品格』新潮社、2005
姜尚中森巣博ナショナリズムの克服』*2集英社、2002
新川敏光・井戸正伸・宮本太郎・眞柄秀子『比較政治経済学』*3有斐閣、2004

これをもってレビューに代えさせていただきますw

*1:まぁあの本に関してある程度のコンセンサスを共有できるだろう人が読むんだろうという勝手な期待と紙幅の都合ですねw

*2:媚びwww

*3:ブラフwww