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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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知られざる伊藤博文の憲法改革とその結末/『伊藤博文』(瀧井一博)、『明治憲法史』(坂野潤治)

【目次】

 

「無定見」な伊藤博文の政治思想

伊藤博文 知の政治家 (中公新書)

伊藤博文 知の政治家 (中公新書)

 

大久保利通死後の明治政府の実質的な第一人者であり、明治憲法の制定に深く関わった伊藤博文をテーマにした本です。スタンダードな伝記とはやや違って、その後年の行動から「無定見」とも見做されがちな伊藤の政治思想・哲学を掘り下げ、そこから彼の行動を読み解いていきます。

伊藤の発想として特徴的なのは、漸進的な制度の進化への信頼であり、また教育によって国民を文明化することによって、立憲国家という国制に国民政治の内実を盛り込もうとしたことだとされます。無定見の最たるものとされる立憲政友会設立ついてもそこから説明していくので須賀、本書の白眉と言うべきは、1907年の憲法改革の試みと韓国での統監政治の関係、そして山県有朋との「頂上対決」の読み解きでしょう。

山県有朋との「頂上対決」

帝室制度調査局総裁として取り組んだ憲法改革は、天皇を国家機関として明確に位置付けて内閣中心の責任政治を確立し、さらには軍部の帷幄上奏権に挑むものでした。軍政事項を内閣の影響下に置くことで、軍部を牽制しようとしたのです。

そこで注目すべきは、韓国駐留軍への指揮権を持った統監に、文官たる自らが就任したことでした。伊藤はこの時、後の言葉で言えば「統帥権干犯だ」というような批判を抑え込んでおり、韓国を軍部抑制の実践の場とした、と著者は論じています。

この憲法改革は、まさに韓国への軍配備を巡り問題化し、最終的には伊藤・山県会談を経て両者の痛み分け(統帥事項と行政を区別する法令としての「軍令」を認めたものの、その範囲は制限された)に終わります。ただお気付きのように、「天皇を国制上の機関として位置付ける」「統帥権の範囲を明確化する」という課題は、まさにその四半世紀後に火を噴く憲政上の一大論点となるのでした。

天皇機関説が後年に「炎上」した理由

明治憲法史 (ちくま新書)

明治憲法史 (ちくま新書)

 

日本近代史の大家である著者が亡くなる前月に出版したこの本は、美濃部達吉の持論だった天皇機関説がなぜどのようにして問題化したのか、あるいは統帥権に関してはどのような議論がなされてきたのかなど、時代・立場ごとの明治憲法理解に力点を置いて憲政史を説明しています。

なので伊藤や山県、井上毅らよりは、美濃部と穂積八束上杉慎吉吉野作造馬場恒吾といった学者・言論人たちに多くの紙幅が割かれています。加えて、政党内閣が終焉した五・一五事件から日中戦争勃発までの時期を、社会大衆党の動向に注目しながらフォローしている点は興味深く読むことができました。

元老が制度化していたら…

やはり両書から浮かび上がるのは、明治憲法体制下の政治権力の割拠性です。伊藤の憲法改革の問題意識もこの点にありましたし、結果として拡散する国制を最後まで繋ぎ止めることになった元老という存在も、制度ではなく生身の人間である以上、いつかはなくなってしまうことは明らかでした。

canarykanariiya.hatenadiary.jp

「漸進主義的な制度の進化論者」たる伊藤は、ある時点まで、後継首相を推薦する役割を枢密院に移していこうとしていました。ただこの構想は、桂園時代に比較的スムーズな政権移行がなされたため沙汰止みになったとの分析があります。1冊目の著者に言わせれば、その辺の判断が伊藤らしいということになるのかもしれませんが、「元老」の役割が明確な制度となっていれば、明治憲法史の展開ももう少し違うものになっていたのではないかと思わざるを得ません。