かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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『啓蒙とは何か』(カント)、『カント』(熊野純彦)

 

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

  • 作者:カント
  • 発売日: 1974/06/17
  • メディア: 文庫
 

先日『西洋政治思想史』(宇野重規)を読んだ際、「紹介されている古典を何か一冊読んでみよう」と思い至り、この本を手に取ってみました。

一言で言うなら、啓蒙とは自分で考える勇気を持つことだーそう書いてあります。「啓蒙」と聞くと、上から目線で一定の結論を押し付けられるかのような語感を与えがちで須賀、そうではないわけです。典型的には、「啓蒙専制君主」はまず以って「啓蒙された君主」であるともされます。

 

個人的に印象的だったのは、カントがこの小篇の中で、プロイセンのフリードリヒ2世を啓蒙主義の代表的人物として絶賛していた点です。『永遠平和のために』のような、現在に至っても実現したとは言い難い大構想を掲げた哲学者が、このような「時事的な」言及をしていたのは正直なところ意外でした。

canarykanariiya.hatenadiary.jp *1

もう一つ。『啓蒙とは何か』には他に4篇が収録されており、カントの議論の全体像に通じていない私にとってはそちらが結構重たかったので須賀、そのうちの一つ『理論と実践』に、ガルヴェ教授という人物への再反論が含まれていました。そのガルヴェ教授に関する注を見てみると「当時の高名な通俗哲学者」とあります。

それが一概に悪いことだとは全く思いませんが、自分の国の王様を褒め称えていたカントにも、一定程度の「通俗的」な面はあるように見えます。そんな彼が、ガルヴェ教授のように「当時は高名だった(けれども今はそうではない)通俗哲学者」と見做されなかったのはなぜなのか、すなわち著作が「古典」として、200年以上後の東洋の異国でも版を重ねているところの卓越性はどこにあるのかー。そうした疑問も湧いてきます。

それに答える一つの切り口を示してくれたのが、(実はたまたま書棚にあった)こちらの本でした。

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

  • 作者:熊野 純彦
  • 発売日: 2002/11/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

かなりポイントを絞った一冊で須賀、「世界は有限か無限か*2」「神の存在は証明できるのか」「理性が知り得ることと知り得ないことは」といった問いから、カントが常に「境界上に身を置く思考」を重ねてきたことが感じられるようになっています。そして本著の著者によれば、それこそがソクラテス以来の、哲学的な思考そのものであるのです。

 

 

 

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*1:これ読んだの12年前か…

*2:この議論の中で出てくる「世界とは、経験を超えた、経験じしんの地平である」という一文がとてもしっくりきて気に入ったので、ここに書き残しておきたいです