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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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「反・知性主義」と「反知性・主義」

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

このところ「反知性主義」という言葉が人口を膾炙していま須賀、その意味をどのように捉えていますか?
アメリカの鉄鋼王・カーネギーは「大学では、ギリシア語やラテン語のような『インディアンの言葉と同じように何の役にも立たない言語』を学んだり、トゥキュディデスの『ペロポネソス戦争史』のような『野蛮人同士の取るに足らない争いの詳細』を学んだりするが、みなまったくの浪費である。そんな教育は、学ぶ者に誤った観念を吹き込み、現実生活を嫌うことを教えるだけだから、大学など行かずさっさと実業界に出たほうがよい」*1と言い放ったことで知られています。個人的な経験で言えば、新聞社に入社したての頃、私たち新人の教育係的な役回りだった人に「上司や先輩が『カラスは白い』と言ったら、お前たちもそう言わなければならない」と宣告され、「何という反知性的な職場なのだろうか」と絶望した*2ことを今でもよく憶えています。
恐らくこれらの発言や態度は、今の日本社会において「反知性主義」の典型とも言えるものでしょう。より一般的に言えば、二冊目に出てくる「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度、『自分に都合のよい物語』の中に閉じこもる(あるいはそこで開き直る)姿勢」というあたりになるでしょうし、顔文字一つで表現するなら「(∩ ゚д゚)アーアーきこえなーい」が近いかもしれません(笑)
一国の首相とそれを支える政権与党が「この法案は違憲?(∩ ゚д゚)アーアーきこえなーい」とやってしまっている最中なので、そのような理解が中心となるのもやむを得ないというか、そもそもいい悪いの話ではないとも思われま須賀、歴史的にはややニュアンスを異にする用いられ方をされてきたようです。
反知性主義」という言葉が生まれたアメリカの宗教史を紐解きながら、その意味を平易に解説しているのが一冊目です。そもそも大西洋を渡ったピューリタンたちがアメリカにつくった社会が極めて知性主義的なものであったために、知が体制化することへのある種のアンチテーゼとしてさらに原理主義的な信仰復興運動(リバイバル)やバプテストらの信仰が生まれ、平等主義の観点から知の権威化に異議申し立てをする。つまり、権威化した「知性主義」に対抗するのが「反知性主義」であり、それは「単なる知性への軽蔑と同義ではない」だけでなく、むしろ「何事も自分自身で判断し直すことを求める態度である」がために「自分の知性を磨き、論理や構造を導く力を高め、そして何よりも、精神の胆力を鍛え上げなければならない」もので、「新たな知の可能性を拓く力ともなる」とすら、著者は論じているのです。「知性主義」に対抗する「反・知性主義」。そこに著者はポジティブな意味をも込めて、歴史を物語っています。
二冊目は様々な論者による寄稿や対談を収録し、そのバックグラウンドとともに論じる内容もそれぞれといった感じになっていま須賀、「反知性主義」という言葉の使い方はほぼ共通していると言っていいと思います(前掲したものです)。白井聡は、国内外の状況を論じつつ世界的な反知性主義化の傾向を跡付けていま須賀、彼は彼の言う「反知性主義」の特徴を、まさに一冊目が指摘したような「反・知性主義」的な弁証法の欠如に見出しています。鷲田清一もエリオットやオルテガの言葉を引用しながら、世界の複雑さに耐え「自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みつ」かないことを「知性的である」と見なしていました*3内田樹の寄稿にもあるように、時間が流れるという感覚が欠如し、歴史的評価に晒されることを好まないこともその特徴の一つであるなら、そもそも現前にない過去や未来、あるいは遠くのものごとについて考えることこそ知性の極めて中心的な機能ですので、こちらの「反知性主義」は差し詰め「反知性・主義」とでも表記できるでしょうか。
「反・知性主義」と「反知性・主義」。点を打たなければ(一般的には打たないので)表記上は同じでありながら、両者はかなり似て非なるものであるようです(似て非なる複数の意味を帯びています)。その淵で迷子にならないために求められるのは、同じく鷲田の寄稿の最後に出てくる「自己への懐疑の精神」ではないでしょうか。「じぶんをじぶんのほうから見るのではなく、じぶんの視野を他なる者たちのそれらのあいだに、たえずマッピングしなおすということ」。全てを俯瞰する神の視野を得ることはそもそも不可能で須賀、こうしたマッピングの努力はできるはず。私自身がこうしたテーマに関して述べる際、「知的に誠実か否か」という言い方を何度かしてきた…つもりなので須賀、それを要らんと言うのに持ち込むならば、そうした努力こそ、知的に誠実な態度の所産であると思いますし、その姿勢を持って輿論に関わり*4、「摩擦」を起こしていくことくらいしか、「反知性・主義」に抗う術はないのかなあと思ったりもします。「お前ら、自分の胸に手を当ててよく考えろ!」みたいなこと言うの嫌いなので(笑)
…ここで終わっても良かったんですけど、一つだけ。特に「反知性・主義」を批判する際にありがちなのは、「あいつは知性がないバカだ。知性のあるオレにはその病理が見える」的な論調です。それをやってしまうと議論がレッテル貼りに終始してしまうのがオチで、まさにそれこそ「反・知性主義」が批判する「権威化した知性」にかなり近い態度でしょうし、二冊目の中でも鷲田や小田嶋隆ら、少なからずの論者が戒めてきたものだったと思いま須賀、それをあろうことか編者たる内田&名越文隆対談で目にすることになろうとは思いませんでした。全体的に玉石混淆な印象が強い一冊ではありましたが、興味深い指摘も多かったですけど、ちょっと品のない対談だなあと思ってしまいました。
あ、あとこれは完全に余談で須賀、一冊目の最後に小中高の同級生という小田嶋のことが例えに出され、二冊目の小田嶋の文章に「M本」なる幼馴染が登場するんですけど、これには何らかの意図が介在しているのでしょうか?ww

*1:一冊目より引用

*2:後に、というか程なく、それほどまでに反知性主義を信奉している人はそう多くないということがわかりました

*3:これらはリンクしていると言って支障ないでしょう

*4:身近な人と話し合うことも十分それに該当します。マスメディア論の古くからの成果を顧みるまでもなく、そもそもその積み重ねこそが輿論だと思います