かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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『オブローモフ』(ゴンチャロフ)

オブローモフ〈上〉 (岩波文庫)

オブローモフ〈上〉 (岩波文庫)

オブローモフ〈中〉 (岩波文庫)

オブローモフ〈中〉 (岩波文庫)

オブローモフ〈下〉 (岩波文庫 赤 606-4)

オブローモフ〈下〉 (岩波文庫 赤 606-4)

自分の名を冠した村を所有する貴族階級に生まれ、高い教育を受けながらも埃の溜まった部屋のベットでずっと眠っている…。「無用者」「余計者」の代名詞にまでなった「ロシア文学における典型的ダメ人間」*1として名高いオブローモフの軌跡を描いた小説です。そうした生活を送りながらも純真な心だけは失わなかった彼には、彗星のように現れて彼を窮地から救い、寝床からも引っ張り出そうとする幼馴染シュトルツや、ある女性との恋など、現状を打破するチャンスは幾たびか訪れるので須賀、やっぱりオブローモフオブローモフだったねというような展開を辿っていくわけです(笑)
そうした彼の頽廃的なものぐささとか、とんでもないぼったくりの契約書に読みもせずにサインをしてしまうような実際的問題への弱さを笑ったり、或いは身につまされる思いをしながら読むのも楽しい本だと思います。で須賀ここでは、このオブローモフと親友シュトルツとの対比を、この小説が書かれた19世紀半ばのロシアの状況と重ね合わせて少し考えてみたいと思います。
オブローモフは、オブローモフカ(オブローモフ村)の所有者のお坊ちゃんとして生まれ、召使いたちに囲まれて「生れてこの方自分で靴下を履いたことがない」生活を送ってきました。その屋敷の人たちは、毎日毎日同じ作業に勤しみ、今日が昨日と同じようであったことに感謝し、明日が今日と同じようであることを祈って眠りにつく。つまり彼らは永遠にクルクルと円を描き続ける時間の中に生きていて*2、ゆえに例えばそういうサイクルを打ち破る可能性を孕んだ「よそからの手紙」といったものを極端に恐れたりするわけです。まあ、極めて乱暴に言ってしまえば、ストーリーが一話完結で何年経っても先に進まないアンパンマンドラえもん、(シリーズ単位で言えば)水戸黄門的な世界の住人なんですね。
一方、ドイツ人を父に持つ*3シュトルツは極めて行動的で、環境の変化を乗り越え、作り出していく。さっきの喩えで言えば、昨日と今日とは違って当然、という直進的・発展的時間を生きています。その点彼が生きているのは、ストーリーが進むにつれて過去が記憶や結果として蓄積され、主人公に子供が生まれて孫が出来ていくドラゴンボール的な世界、とでも言えましょうか。
この対比が意味するのは、なんでしょうか。この小説が書かれた19世紀半ばのロシアでは、固陋たる農奴制を改革して(イギリスやフランスに対して)遅れた国を近代化せんがための種々の努力がなされていました。アレクサンドル2世の末路を見ればその努力が概ねどのような結果を生んだかは推して知るべしというところではありま須賀、図式的に言えば、そうした時代の葛藤こそが、オブローモフとシュトルツの間に横たわる深淵であり壁である、と言うことができないでしょうか?
現実的にも、オブローモフは300人の農奴を支配する地主であり、シュトルツは事業を切り盛りする言わば「資本家」です。オブローモフアンパンマン的な「生活」とシュトルツ・ドラゴンボール的なそれが並んで提示され、そして後者が浸透し、前者が時代遅れのものとなってくる。そういう大状況を下敷きに物語の一つ一つの出来事やなりゆき*4を振り返っていくと、かなりスッキリと著者の描こうとしたものを理解できる…ような気がするんで須賀これ如何。
当時の貴族階級の暮らしを非常に写実的に描写している、との評価の高い作品で須賀、そうした時代の葛藤や流れをもよく表現しているのかもしれません。上中下で約1000ページと、いかんせんちょっと冗長なんですけどねw

*1:これは相当な誇張を含んだ表現でありま須賀

*2:「常民」という言葉が適切か分かりませんが、ニュアンス的にはそんな感じ

*3:この辺の設定が著者の「ドイツ人観」をよく表している気もします

*4:小説ですので一応(笑)詳述は避けます