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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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『監獄の誕生―監視と処罰』(ミシェル・フーコー)

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

ここ数年で最もレビューを書きたくない本をついにやっと読み終えてしまいました。これだけ多くを語られている世界的に有名な本を、片目で子供の遊ぶ様子を見ながらちょぼちょぼ読んでいた*1だけの私が評する価値があるのか疑問ですし、そもそもを言えば、何かをアウトプットできるほど内容を理解できたのかすら怪しいところではあります。『監視と処罰―監獄の誕生』という原題を持つこの本は、国王暗殺未遂犯に加えられた苛烈極まりない死刑の描写から始まり、そうした「国王の敵」へのド派手な見せしめであった身体刑が、監獄における規律訓練による矯正へと変容するさま、さらには、その仕掛けとして知られる一望監視施設(パノプティコン)の原理が監獄のみならず、学校や工場、病院など、社会全体に広がっていくさまを、フランスを中心とした豊富な事例*2を用いて論じています。
最初に挙げたような理由でこれ以上議論の詳細に立ち入ることは避けま須賀(笑)、感想だけ。個人的には後半の規律訓練よりも、最初の方に出てくる身体刑の話の方が面白かったです。君主権との対決の意味合いが色濃かった当時は、刑が失敗するとその死刑囚は罪が許される代わりに執行人が罰せられたとか、犯罪の論証においても「こいつは30%怪しいから30%分処罰しよう」というような判断がまかり通っていた*3といった指摘は非常に興味深く、それらがどのように変遷することによって今私たちが知る刑事司法制度・行刑制度になっていったのかという点も含めて考えられれば、かなり面白いのだろうと思いました*4
一方の後半部分がやや冗長に感じたのは、あるいはそこで述べられている内容が感覚的に所与のものだったからかもしれません。それはもちろん「そんなのとっくに知ってるよ」という意味ではなく、(私はもちろん)誰もが教育や労働など様々な場で規律訓練による権力作用を受け続けてくる中、その誰もが言われてみれば感覚的に納得できることを論理的・実証的な言葉によって指摘したあたりがフーコーさんのすごいところですよね、というお話なのであります(と、私は解釈しています)。ただまあ、これも私の浅い理解によればで須賀、著者自身はこうした権力の作用を好感しているようには読めなかった半面、それをもろとも葬り去ることができる/それを目指すべきだと考えているとも思えなかったんですね。そう考えていくと、単純な発想ではありま須賀、まず以てはこうした作用に如何に自覚的であるかが一里塚になってくる。その意味においては、極めて個人的に言えば、生まれて1年と経たない我が子がどのような場でどんな作用を受けていく(る)のか、あるいは自分が施してしまうことになる(しまった)のかに無自覚であってはならないのだろうと感じました。まさにフーコーも、括弧書きの中でこう言及していることですし。

将来、明らかにする必要があるのは、規格に合ったものと規格に合わないものという規律・訓練上の問題のための、明確化の特権的な場として家族を考えてきた外的な図式、学校教育での、軍隊での、ついで医療上、精神医学上、心理学上の、そうした図式を古典主義時代以来、吸収しながら、家族内の初関係が根本的には両親=子供という独房のなかで、いかに≪規律・訓練化≫されてきたか、である

*5

*1:今もそんな状態で書いている

*2:例えば、コント赤信号のメンバーの芸名で名高い某進学校の親玉の教育手法についても、その著書から多くの引用がなされています。ちなみにその学校は流石というか何というか、21世紀初頭においても規律訓練の手法によって受験マシーンを量産しているようです

*3:念のためで須賀、今の日本の刑事司法の原則は「疑わしきは罰せず」、つまり100%クロでなければ(そう判断するのにちょっとでも合理的な疑いがあれば)無罪とされ、1%すら罰せられてはいけない、ということになっています

*4:逆に言うとその点に関しては、理解の不十分さも相まってかストンと落ちるような感覚はなかったかなというのが正直なところです

*5:太字はレビュー筆者による