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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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今の日本が自由だと思っている人にこそ、手に取ってほしい一冊/『彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動』(ミルトン・マイヤー)

彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動

彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動

60年前の本ながら、読み進めるうちに自分の置かれつつある状況が空恐ろしくなってきます。
ドイツ系アメリカ人の新聞記者である著者が、第二次世界大戦後にドイツの小さな町・クローネンベルクに1年住み、当時ナチ党員だった市井の人10人にインタビューを重ねることでナチズムの内在的理解を目指した本です。といっても、彼自身がユダヤ人である*1という極めて「微妙な」事情も絡み、やはり全体的には視線というか立脚点のブレは否めません。また、主に第2部「ドイツ人」では、民族性論の危険性を叫びながら自ら民族性論を展開*2したりしており、60年前におけるジャーナリスティックな時評たる第3部と合わせて、読み飛ばしてしまっても構わなさそうに思えます。
それでも、10人をはじめとするドイツ人らが彼に話した内容は、まさに同時期の日本を連想させ、そして今の日本に住む人間をギクッとさせるに充分なものです。
強い同調圧力、「市井の人間」という「権限への逃避」は前者を想起させますし、「ヒトラーではなく、陰謀家のヒムラーゲッペルスが悪い」と言わんばかりの言い草は、「君側の奸」たる「重臣勢力」を取り除こうと2・26事件を引き起こした将校らの発想とそっくりです。「いっさいの議会政治屋いっさいの議会政党に反対したことが、ヒトラー主義を引き出し、それらのすべてがヒトラー主義に破壊された」という部分は、(そりゃあドイツの状況も鑑みて言ってるんでしょうけど)まさに丸山真男ファシズム観と通底します。
読みながら、今の日本社会の状況を考えずにいられなかった部分もたくさんありました。ユダヤ人差別の看板が各地に立つようになったという「小さな無法行為」*3への「無抵抗」が後の惨劇につながったという著者の指摘は、昨今問題となっているヘイトスピーチとどう向き合うべきかを強く示唆しているように思えますし、ナチズム浸透期に反知性主義が社会を覆ったという記述からは、政権政党をはじめ社会が「ヤンキー化」しているという斎藤環の主張や、一部の的を射ないマスコミ批判*4を連想させられます。「自分たちの絶望を国家の絶望と同一視した」というくだりは、そう言えば福祉国家の崩壊後に「アトム化された」個人のありようとして、生姜先生が言っていましたね。
政治の混乱のさなかに「ドイツ(的な徳目)はどこにいってしまったのか。(ドイツを、取り戻す!)」との声が上がり、パン屋が「この世では、景気が良ければ報いはある。近頃では景気がいい。(ナチ)現体制をどう思うかって?これは国民にパンを約束してくれているし、自分はパンを焼くだけだ」と内心つぶやく。これって、どこかの国の現政権と似てませんか―?
…とまあ、そういう個所は枚挙に暇がないので須賀、著者の知人のドイツ言語学者が語ったという言葉は圧巻としか表現のしようがなく、多少長い引用にはなりま生姜、是非読んでいただきたいと思います。

このドイツでは、国民は少しずつ慣らされていきました。不意打ちを喰わすような統治や、こっそり練られた決定の押しつけに、事態が複雑すぎるから、政府は国民に理解できない情報にもとづいて行動せねばならないのだとか、たとえ国民がそれを理解できるとしても、事態はあまりに危険だから、政府は国家の安全のため情報の公開はできないのだとか考えることに、国民は慣らされていたのです。…(中略)…(このような事態は)一時的な緊急措置という形で…偽装するとか、本物の愛国的な忠誠や、現実の社会的諸目的と結びつけるとか、どのステップも極めて徐々に、しかも気がつかない形で進行しました。…(中略)…それぞれのステップはあまりに小さく、とるにたらず、ときには「遺憾の意」も表されましたから、初めからプロセス全体を離れてみていなければ、また、事態全体が大体どんなものなのか、「愛国的ドイツ人」がだれ一人憤慨できないこうしたすべての「小さな措置」が、将来何をもたらすかを理解していなければ、一日一日と事態が進展しているのがわからなかった。
(中略)
ニーメラー牧師は…何千何万という私のような人間を代弁して、こう語られました。「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた」と。
(中略)
事態がどこに行きつくのか、あるいはどう動いてゆくのか、正確にはわかりません。…行為や事件は、それもがその前の行為や事件より悪化しま須賀、しかし、ほんのすこし悪化するにすぎません。あなたはつぎの機会を待ち、つぎのつぎの機会を待ちます。ショッキングな大事件が起きたなら、他の人たちも自分と一緒になって、ともかくも抵抗には参加するだろうと考えて、大事件を待ちます。…(中略)…ところが、何十人、何百人、何千人の人たちが、あなたと一緒に行動するというショッキングな大事件は絶対に起きません。…(中略)…第三段階は第二段階よりそんなに悪くないのです。あなたが第二段階で抵抗しなければ、なぜ第三段階で抵抗しなければならないでしょうか。こうして、事態は第四段階に進みます。

これを読まれて脳裏に浮かんだのは、恐らく特定秘密保護法のことだけではないでしょう。ニーメラー牧師の言葉は比較的知られていま須賀、これはまさに他者への想像力を働かせることの重要性と、「いつやるか、今でしょ」という至言(?)の妥当性を述べているんだと思います。
この本は、私が現政権や今の社会に抱く危機感を共有しない人に、手に取ってほしいと思います。
今の日本は右傾化していない、むしろこれくらいが正常だ。安倍首相を戴く自分たちは、自由だ。そう考えている方にこそ、お勧めしたい一冊です。

*1:ちなみにその事実はインタビュイーには伝えていません

*2:ユダヤとドイツ国家の類似性、なる議論としては興味深い話もありましたが

*3:著者の用法です

*4:妥当なものも少なからずあると思います。それは明言しておきます