かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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『地下室の手記』(ドストエフスキー)

地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)

しかし、それにしても、二二が四というのは鼻持ちならない代物である。二二が四などというのは、ぼくにいわせれば、破廉恥以外の何物でもない。二二が四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行く手に立ちはだかって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないのだろうか。

突然何を言い出すのかと驚かれた方もいらっしゃるかと思いま須賀、これはこの作品の主人公たる「地下室の住人」の独白の一部です。「自意識過剰」という言葉がこれほど似合う人もなさそうなこの主人公は、親戚が残した遺産で役所を辞めた元役人。延々たる独白と、若いころの一つのエピソードの二部構成で成り立っています。
著者によるプロローグを読めば、それが書かれた19世紀半ばのロシアという時代背景を無視して、この作品を理解することはできないことがわかるでしょう。西欧流の近代化や理性主義、ヴェーバーの言葉を借りれば脱魔術化の波が押し寄せたとされる時期に、まさに「二二が四」的な合理主義的発想や実際主義、そこから敷衍されうる人為的な理想社会建設に異を唱え、「二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないのだろうか」と嘯く人々の心性を反映している、という理解かなあと思います。
その意味において、後半のエピソードの主人公は、度が過ぎるほど自意識過剰で、小心で、観念的で、そして衝動的です。その姿はそうした人たちを戯画化しているように見えま須賀、こう言ったら変で須賀、なんだかかわいいというか、愛をもってそう描かれているような気もします。
このように、当時の時代背景だとか、ドストエフスキーの作品群の中での位置付け*1でもってこの作品を語ることは割と行われてきているようで須賀、私が読んだ一番の感想は、それらとは対照的なものでした。「極端に描かれているけど、この人と自分は似ているかもしれない」「こんな感じの奴、身の回りにいたかも」。作中に彼の名前というのが出てこないことにも、そうした感覚を煽られた気がしま須賀、21世紀の日本でもそう感じてしまう間口の広さというか、どこか愛すべき人間臭さがにじみ出ていると思いました。

*1:作風の転換点をなす「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」などと評された