かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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【不謹慎注意】「被災地」という磁場

不謹慎、と思う方も多いかもしれません。へそを曲げているだけだ、と大抵の方が思うでしょう。それでも最近折に触れ、ふと思い出す一文があります。実はここで一度掲げたこともあるので須賀、再び登場していただきましょう。

大和魂!と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした。
大和魂!と新聞屋が言う。大和魂!と掏摸が言う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。ドイツで大和魂の芝居をする。
東郷大将が大和魂をもっている。さかな屋の銀さんも大和魂をもっている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂をもっている。
大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五、六間行ってからエヘンという声が聞こえた。
三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている。
だれも口にせぬ者はないが、だれも見た者はない。だれも聞いたことはあるが、だれも会った者がない。大和魂はそれ天狗の類か。
(『吾輩は猫である』(夏目漱石)より)

別にテレビを10分つけていたら必ず耳にする「日本がどうたら」というフレーズと「大和魂」の関係を述べ立てようという意図は、ここではあまりありません。確かにトータス松本に「日本は強い国」と説かれても違和感の方が先に立つというのが正直なところなので須賀、ここで「大和魂」の代わりに挿入してみたいのは、別の事柄です。
誤解を招きそうなので強調しておくことまであらかじめ断っておきま須賀、今の日本社会においてカギカッコ付きの「被災地」や「被災者」、あるいは「被災地のために」というフレーズが、ちょっと独り歩きしてはいないでしょうか。
先月の大震災では、不幸なことに多くの方が被災され、命を落とされた方の数すらはっきりしない状態です。あの日、「これは現実の映像か」と疑いたくなるくらいの津波に町が飲み込まれ、広大な地域が被災しました。ですから無論、被災者も被災地も「天狗の類」ではない。
しかし、東京発のマスメディアを中心にあちこちで聞かれるのは「被災地のために!」という大合唱です。その実際上の当否はともかく、震災直後の時期には「被災地のために」計画停電に耐えよう、「被災地のために」物資の買い占めはやめよう、と言われてきました。そして「被災地のために」花見は自粛したらどうだ、という人*1も出てきました。事実かどうかは確認していませんが、「震災後にテニスをしていたら『不謹慎だ!』と石を投げられた」なんてツイートも目にしました。これらに共通するのは「被災地の人々が苦しんでいるときに、自分たちだけ楽しむのはよくない」という考え方です。
一方で、しばらくすると「被災地の人々は『自粛』を望んでいない」という声も大きくなってきました。今日の夕方のテレ朝の番組はそのいい例なのかもしれませんね。例えば被災地の酒造業者さんが「東北の酒を飲んでください」とアピールしたり、「自粛なんかして被災地のために何になるって言うんだ。それこそ東北の産品を消費して経済を回した方がよっぽど被災地のためになるじゃないか」ってなことも公然と語られ始めます。しかしそれでも忘れてはならないのは、「被災地のために」という言葉やスタンスはここでも消えていないことです。先述のテレ朝の番組で言えば、上野公園で花見をしている若者が飲んでいる日本酒の産地を示して「これは東北の酒なんです」と述べ、「日頃はTwitterなどで被災地支援を呼び掛けている」という趣旨の発言まで付け加えているのは、彼自身がそのスタンスを共有していることを示すためだと言えるでしょうし、あるいはその姿を見て直感的に「言い訳がましいな」と感じた私も、そのスタンスを前提に彼を見ていると言えるのかもしれません。
ここまで、一見相反しそうな二つの考え方について紹介しましたが、ここで私がそのどちらが「被災者」の実情として正しいだとか、妥当だとか言うつもりはあまりありません。そんなことをしても有意義だとは思わないからです。そりゃあ「こっちが原発のせいで避難生活をしている時に、そこで作った電気を使ってきた連中が花見でドンチャン騒ぎというのはちょっと気分が悪い」と内心思っている人はいると思いますし、そういう思いに対して「自己中心的だ」「心が狭い」などと論評することは、さすがの私にもできかねます。でも逆に「僕らのことを思うならうちの特産で盛り上がってよ」とか「自粛ムードとか辛気臭いのはやめてよ」というような声もあるでしょう。つまり何が言いたいのかというと、こんな文字数を使って言うことでもないので生姜、被災地も、被災者の方々も、いろいろなのではないでしょうか。小泉さんではないですけども。
今、この社会の言説空間*2で息をしていると、「被災地のために」という言葉の強烈な磁場を感じます。一般の商品広告に何の脈絡もなく「被災された方々のご冥福を云々」と付け加えられていたり、選挙カーや街頭演説が「被災された方々には心から…」の枕詞から入っていたりするのもその影響でしょうし、先ほどの花見の若者も、もっと言えば今私が書いているブログの記事も、その範疇でしょう。私は、何もかもを無理やり震災や被災地と結び付けて語ることが好ましいとは思っていません*3し、仕事の面でもそれをやめていこうと思っています。今この世の中で起こっているのは、この未曽有(みぞうゆう)の大震災だけではないからです。
しかし、それに劣らず私が懸念するのは、ここまで強力な磁場を形成する言葉が、何か実態を離れて、「どんなものかと聞い」ても同じ言葉が反復されるようなあり方で振りかざされることです。現実に厳として存在する被災地の惨状や被災者の方々が、いつの間にか「だれも口にせぬ者はないが、だれも見た者はない。だれも聞いたことはあるが、だれも会った者がない」ような「天狗の類」の「被災地」や「被災者」になってしまって、「被災者はこう思っているんだから花見は自粛すべきだ」とか「いや、こう思っているから花見で義援金を募ればいいはずだ」とか「東北の酒を飲んで被災地の経済を回すのが正しい」という、言わば「被災地」という錦の御旗を巡る争いのようになっていやしないか。あまりに穿った見方かもしれませんが、「被災地のために」という枕詞を脈絡なく繰り返すのはちょっとやめにした上で、被災地のことも、そうでないことも語っていきたいと思いますし、よりそうしやすい雰囲気になればと願っています。

*1:当選おめでとうございます

*2:テレビや新聞・ネットを見たり、顔見知りや見ず知らずの誰かと言葉を交わしている人はそこにいます

*3:まあ関係あることはそうすればいいんで須賀