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取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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サンデル読んでる?/『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』(マイケル・サンデル)

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

コミュニタリアンとして知られるアメリカの政治哲学者、サンデルの大学講義をまとめ直した本です。と今更説明するのが馬鹿らしいです。今日もビートたけしのテレビに出ていました。
これだけちまたにレビューが溢れている本をわざわざレビューするのも馬鹿らしいというのが本心だったりもするので須賀、まあ自分が忘れないために簡単に。
この本は序盤のたとえ話から入って、ベンサムやミルの功利主義ノージックらのリバタリアリズム、世界市民です、か?カントとロールズリベラリズム、政治と善にまつわるアリストテレスの思想を紹介した上で、最後にサンデル自身の主張が出てまいります*1。特に序盤がすらすらと読みやすいのはサンデルの術中、とまでは言いませんが、個人的には終盤ややドキッとしました。
実は、私が学生時代に二日酔いの状態で受けていた政治思想史の講義にも彼らが登場し、試験の答案には、まさにロールズとサンデルについて「サンデルの主張はロールズの批判的継承と考えることもできるのではないか」*2みたいなことを延々と書いたこともなんとなく覚えています。しかし今回読み終えて感じたのは、コミュニティへの責任や連帯を無視するな、という議論が完全に間違っているとは思わない一方、「コミュニティなどとの連帯の責務」が金科玉条のように追認されることは相当程度よろしくないことではないかということです。
確かにこの中でサンデルが挙げた、貧富格差と不法移民や、愛国心といった例は、現代を生きる私たちにとって感覚的に受け入れやすく、現実的で常識的なように思えるかもしれません。私がそう感じたものももちろんあります。しかし、それらの少なからずが、ナショナリズムや(国民)国家という我々にとってなじみ深い論点とリンクしていることは、無視してはいけない点だと思います。
何が言いたいかというと、前に読んだ『寝ながら学べる構造主義』流に言うなら、「コミュニティの道徳的な重み」を訴えるサンデルの主張は、国民国家時代のある種の「思想上の奇習」であるようにも思えた、ということです。そしてそれが大手を振って是認されることの結果が、現実政治に何をもたらすのか。私はそのことをやや、懸念せざるを得ませんでした。*3
サンデルは、議論の中でこのように述べています。

…そうした懸念は、ある重要な問題を提起している。コミュニティの負荷は抑圧となりがちだという問題だ。リベラリズムの自由は、階層や階級、身分や地位、習慣、伝統、世襲した地位などによって定まる運命に人間をゆだねる政治理論への対抗手段として発達した。それならば、どうすればコミュニティの道徳的な重みを認めつつ、人間の自由をも実現できるだろうか…

コミュニティの道徳的な重要性を全否定はしない一方で、「コミュニティの負荷は抑圧となりがちだという問題」を懸念する。文構造が逆であるところがミソだと個人的には思うので須賀、いずれにせよ、これこそが現代という「奇習の時代」を生きる人間の問いなのかもしれません。
以上、サンデルの議論への批判的継承でした。

*1:ちなみにここでの「○○主義」のラベリングは便宜上、この本に拠りました。私がここでサンデルの著作について述べたいからです

*2:しかし批判的継承とすら見なせない有効な批判というのが世の中にどのくらい存在し、また知的に誠実な議論として尊敬できるのかは私には疑問です

*3:ここの部分、文意も不明瞭な上、書いていた私の頭も不明瞭でありましたので、補足させていただきます。この後出てくる「懸念」もさることながら、この中に多くある国民国家的な議論が果たしてどのくらい「これからの『正義』」を語るのにふさわしいものなのか、というのに近い問題意識を持っていたと思われます。2011年2月23日午前1時