メディア文化論―メディアを学ぶ人のための15話 (有斐閣アルマ)
- 作者: 吉見俊哉
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2004/04
- メディア: 単行本
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やはりこの本の一番のキーワードは「メディアの可能的様態」だと思います。この言葉の問題意識は、あるメディアの取りうる様態は、必ずしも一義的に決まってしまうものではないのではないかというものです。これだけだと「何を言っているんだ」とお叱りを受けそうなので、議論の中から具体例をあげると、電話は初期においてオペラやニュースなどを「放送する」メディアとしても活用され、日本でも戦後の一時期まで、「農村有線放送電話」とでも呼ぶべき電話回線網が、当時の電電公社の回線を凌駕するレベルで広がっていたそうです。これは、少なくともある時点までの電話が、現在のような個別的通話ではなく、よりマスコミュニケーション的な放送メディアたり得たことを示しています。逆に、無線電信を成功させたマルコーニは、その技術は海上での船舶通信に限定して用いるべきと公言しており、その言葉はその後のラジオ放送への発展とは大きな落差があります。
このように、技術がメディアのあり方を決める(技術決定論)のではない。露天興行師が労働者階級に披露したことが映画という娯楽の形に影響を与えたとされることなど、どんな人がどう受容したのかという点が、メディアの可能的様態にも大きく影響していると言えるでしょう。
実はこの本は5年ほど前、大学の講義で読んだものです。その時は「吉見俊哉をやっつけろ」が講義のサブタイトルで、受講者たちの批判や指摘に、吉見さんが何度か「おっしゃることは分かる。舌足らずなことは認識しているが、紙幅の都合上割愛せざるを得なかった」と話してらした*1のを見て、しばしば議論の展開に置いていかれながらも「教科書形式の本」というメディアの窮屈さのようなものをおぼろげながら感じていたことを思い出します。
じゃあなぜ今この本かというと、インターネットが広く普及し、既存のメディアを含めたメディア環境全体を大きく変えつつある今、「メディアの可能的様態」ということをもう一度考えてみたかったからです。例えば、かつてのJ-PHONEがカメラ付き携帯電話を本格的に売り出した時、パケット数の大きい写メールの送受信増加が収益増を生むという見方があったそうで須賀、逆に通信料が高くなるのを嫌って、撮った写真を送信することを前提としない利用者も現れたそうです。具体的にそれがどのくらい大きな要因かは検討が必要で生姜、最近話題のiPadなど、新たなメディアが続々登場している今こそ、そういったメディアのあり方に関する可能性が幅広く花開くのではないか。そのことだけでも忘れずにいれば、今後のメディア社会を考える上で有益かつ面白いのではないかと思いました。
あとメモ的に言えば、ジャーナリズムの規範というものが歴史的にどのように形成されてきたのか興味を持ちました。
*1:彼の名誉のためにというよりは、事実として誤解のないように付け加えておきま須賀、当然終始そんな問答を繰り返していたわけではありません。今思えば、それこそある意味でメタ的な「メディア論」だなあと思い、このエピソードを持ち出したまでの話です