かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

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吾輩は猫である (角川文庫)

吾輩は猫である (角川文庫)

この本を評するにあい相応しい書き出しというのは、まだないというより私には発明できないでしょう。漱石の処女作、『吾輩は猫である』です。アラカルト的に書くことに結局はなるので生姜、まぁ少しずつ考え事をしていければと思っています。

  • 吾輩は猫でなければならなかったか?

よく言われることで、わざわざ私が述べる必要はないで生姜、この作品の肝は、猫の視点から登場人物たちへ、もっと言えば人間社会への風刺であることです。一定の社会に外部の視点を持ち込んで風刺する、その面白さを実によく体現していて、例えば私が海外に行って面白いと思うのはまさにこの意味においてです。ただし、じゃあなぜ猫なのか? この作品が世に出た経緯を知れば、そこに著者の意図を大きく見積もることに、意味がないことは明らかです。それでも、吾輩はペルシャ人でも赤ん坊でも犬でも鼠でも主婦でも小僧でもない、猫であることにどんな面白さがあるか、敢えてそう問うてみます。
恐らく、外野からの批評・風刺である以上、その対象と直接コミュニケーションをとることができない方がよいでしょう。そして、当然言うまでもなく、異質な方がよい。となるとやはり人間以外がいいということになりま生姜、じゃあなぜ猫か。思うに、人間を観察するに(少なくとも当時は)最も適した動物が猫なのではないでしょうか。最近は犬もそうなのかもしれませんが、猫は一度家人に認められさえすれば、公然とその家に出入りすることができます。そしてその逆、言うまでもなく「出入り」ですから、フラッといなくなるもの自由。ですからこの猫がそうであったように、主人なんかより猫の方がよっぽどよく事情を知っている、という事態も起こるわけです。この猫ゆえの自由自在さは、漱石がこの作品を書き継いでいく上で、かなりのフリーハンドを漱石に与えたと言えるのではないでしょうか。

  • 吾輩は猫であったか?

猫ゆえに話の展開が広く伸び、面白くなったと言った直後にこんなことを言うと、私も胃弱性の神経衰弱なのではないかと疑われるかもしれませんが、じゃあこの作品の主人公はどの程度猫たりえたかについても、少し述べておきたいと思います。どういうことかと言うと、ここまでは風刺する対象(=人間)の外部の視点であること、そうあるために猫であるという手段が便利であることについて話してきたわけで須賀、最初に猫であると言ってしまった以上は猫であらざるを得ないわけで、他ならぬ猫としての視点がどれほど作品にあらわれてきているか、そこを問題にしたいのです。
これはまさに書き継がれた作品ゆえということができるで生姜、主人公の猫がどの程度猫たりえたかについては、一貫して評することはやや難しいように思います。ただ、やはり序盤が面白いのは、それが猫から見た人間社会への風刺であるのみならず、主人公の猫が粗暴な「黒」や美しい「三毛子」ら他の猫らとの関係性の中に位置づけられた一匹の猫であり、お雑煮の餅がくっついて踊りを踊る羽目になる猫だからではないでしょうか。逆に言うと、変人大集合の最後は別格としても、徐々に風刺のネタはあれども単調な雰囲気が否めなくなってくるのは、主人公が自らの身辺を語らず、ただ人間社会*1に対する外部視点であるという傾向が強まったからのように思うのです。ただ外野から偉そうに皮肉を言っているだけではなく、ちゃんと自分の世界も持っていて、それもまた滑稽である。人間ではない、しかし猫である。そのコントラストが面白いんだと思います。

  • 猫は何を嗤ったか?

ちょっと話の趣向を変えて、その勢いで終えてしまおうと思います。要は批評風刺の内容についてなので須賀、トチメンボーや巨人引力が滑稽なのはもちろん、その世相に対する批評性についてこれもちょっとだけ。作品中で主人公の猫が自分のことを「20世紀の猫」と名乗ったり、日露戦争の話題が多く出たりと、この作品が世相を一定以上意識したものであることは間違いないと思います。その上で一つだけ、私がこの作品から邪推するならば、この作品には、社会の個人主義化・合理化を皮肉りながらも、それはもはや不可避のものなのではないかと考える、漱石の近代社会に対するスタンスのようなものが漂っているのではないか、ということです。
最後の変人大集合の巻を中心に、猫の主人たる苦沙弥先生や「哲学者」八木独仙は、西洋的な個人主義や、社会改造的な一種の合理主義に対する怨嗟を延々と述べます。その一方で「美学者」迷亭は、この社会の個人主義化は避けることのできないものとみなし、その招来する極端な未来としての自殺の流行というより一般化や、夫婦制度の破綻などを当然の未来として弁じたてます。この人たちの主張のみによって漱石のスタンスを理解しようとするのも危なっかしい話で須賀、そもそもこうして近代化しつつある日本を論じている「太平の逸民」たちは金田一家らのような金満家とは大きな一線を画し、そしてそれゆえに苦沙弥先生は金田一味の嫌がらせに苦しめられている(?)わけで、作品中にもその個人主義化・合理化の波は確実に押し寄せていると言うべきです。生姜先生『悩む力』で指摘したのはそのマックス・ウェーバーとの共通性なわけで須賀、こうして十数年ぶりに通読してみると、思いがけずそういう部分もなんとなくつながってきたりするものです。
最後に、私の関心分野(笑)についての苦沙弥先生の名文を紹介して、思いがけず長くなったレビューを閉めようと思います。

大和魂!と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした。
大和魂!と新聞屋が言う。大和魂!と掏摸が言う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。ドイツで大和魂の芝居をする。
東郷大将が大和魂をもっている。さかな屋の銀さんも大和魂をもっている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂をもっている。
大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五、六間行ってからエヘンという声が聞こえた。
三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている。
だれも口にせぬ者はないが、だれも見た者はない。だれも聞いたことはあるが、だれも会った者がない。大和魂はそれ天狗の類か。

*1:苦沙弥先生や迷亭の世界がそう呼ぶに値するかについては甚だ疑問で須賀w