かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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日本語の時間的・空間的多様性/『日本語全史』(沖森卓也)、『方言の日本地図』(真田信治)

 

日本語全史 (ちくま新書)

日本語全史 (ちくま新書)

 
方言の日本地図-ことばの旅 (講談社+α新書)

方言の日本地図-ことばの旅 (講談社+α新書)

 

お里の方言がキツイということもあって、以前から割と方言については興味があるつもりだったので須賀、

canarykanariiya.hatenadiary.jp

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歴史的な経緯あっての地域差でもありますので、時間と空間の広がりから日本語について学んでみようと思い、2冊読んでみました。

『日本語全史』は、上代特殊仮名遣からら抜き言葉まで、1500年以上の日本語の歴史を文字表記・音韻・語彙・文法の面から詳述しています。ネットで「なぜこんな重厚な内容の本を新書で出したのか」と言われているのも見ましたが、本当にそんな感じの、構成も内容もしっかりした本です。

言うまでもなく、奈良時代平安時代の日本語は違っていますし、院政期以降もまたどんどん変化しながら今に至ります。まさに「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」なわけで須賀、ちょうど院政期から文語と口語が乖離し始め、変化を続ける口語とは対照的に、文語は平安朝時代のものが意識され続けます。明示的にそうとは書いてありませんでしたが、私たちが学校の「古文」として「源氏物語」や「枕草子」を中心に学ぶのは、恐らくそのことによるのでしょう。

『方言の日本地図』は、方言の分布図を多用しながら、周圏的伝播や世代、かつての藩や行政区分・学区など、方言分布の様々な要因を具体的事例から説明しています。また、勢いがあるように思える大阪弁すら「標準語化」している*1ことを挙げ、収集が進まないまま各地の方言が廃れていくことに危機感を表明しています。

この2冊、(見解が一致すると言う意味ではなく)繋がる議論もあって興味深かったです。月並みではありま須賀、一口に「日本語」と言っても、時間的にも空間的にも多様な広がりを持つものなのだなと実感しました。

 

同様のテーマでワクワクしながら読み進めたのは

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だったかなあと思い出しま須賀、この著者の新刊はなかなか買う勇気が出ない…www

 

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*1:東京の言葉と一対一に対応する語や文法構造が増え、「大阪弁にしかない概念を表す語」が用いられなくなってきている

『ネット炎上の研究』(田中辰雄、山口真一)

 

ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

 

ネット上での「炎上」現象について、事例紹介や分類、アンケートに基づく参加者の分析、それらを踏まえた対策の検討などを行った本です。

炎上の事例紹介や対策について触れている本はいくつかあるようで須賀、この本のユニークさは、アンケート調査やいくつかの炎上事例の分析に基づいて、炎上に参加する人のボリュームや属性を推定していることでしょう。その分析結果によると、炎上参加者(一言でも書き込む人)はインターネットユーザーの0.5%程度であり、炎上している対象を直接攻撃するような人は0.01%未満のレベルなのだそうです*1

著者らの提示する解決策についての議論は(失礼ながら)ここでは割愛してしまいま須賀、この本を通じての彼らの問題意識は「炎上によって社会全体で情報発信が萎縮してしまうのは望ましくない」というものでした。私も現在のネットニュースの仕事の中で、企業や著名人など第三者の炎上を扱うこともありますし、「自分たちが炎上しないように気をつけよう」という注意喚起がなされることもあります。報道記事を扱っている以上、「炎上しそうなテーマを避ける」ようなあり方ではあってはならないと思うわけで須賀、炎上問題に関し「相手を知る」上で、このような分析は貴重だと感じました。

ただその一方、ボリュームとしてかなり小さい「炎上させている人」が、社会的に見て「特異な人」である、という言い方はあまり感心しませんでした。「炎上はごく少数の特異な人の仕業だ」とすることで、社会的な炎上に対する萎縮を解きほぐそうとする意図はよく理解しているので須賀、著者らも認める通り、ボリュームが小さい集団の属性について、一般化して言及するのは難しいことのはずです。

もっと言うと、要するに著者らは「ちょっとだけ異常な奴がいるけど放っておけ」と言っているわけで、悪質な煽り行為を礼賛するつもりはありませんが、分断して排除するような扱いはインターネットの、さらには自由主義の精神に悖るような気がします。それこそまさに、「炎上」してしまいそうです。

 

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*1:「炎上させている人」の数は実は少ない、というのは界隈の人の中では言われていることでもあるそうです

親子の2019年1月読書「月間賞」

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私はこれにします。他にも良い本との出会いはありましたが、そろそろ出向期間も終わりですし、残り期間、そしてその先について考える助けになった点を重視しました。

次点を選びましょう。毎度ながら勝手な解釈に基づく評価で須賀、この本の議論も示唆するところが大きかったように思います。

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長男はこちらだそうです。

おばあちゃんのななくさがゆ

おばあちゃんのななくさがゆ

 

ピンポイントでこの絵本、というよりはこのシリーズがお気に入りです。「恵方巻き」も楽しそうに読んでいましたね。彼はおばあちゃんのことも食べることも大好きなので、私としても納得のチョイスです。

 

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天文学の「三つの車輪」/『眠れなくなる宇宙のはなし』(佐藤勝彦)・『Newton 138億年の大宇宙』

 

増補改訂版 眠れなくなる宇宙のはなし

増補改訂版 眠れなくなる宇宙のはなし

 

たまたまネットニュースで宇宙の話を読んだ時に思いついて、久々に宇宙について勉強してみることにしました。幼稚園の頃は好きだったので須賀、最後にちゃんと学んだのは高校の地学以来だと思いますww

1冊目は、古代から現代までの宇宙観の歴史を辿ることで、天文学の発展の様子とともに、基礎的な情報から今の研究動向までをフォローできる本です。

読み進めていくと、天文学が観測と(合理的な)理論という両輪で発展してきたことがよくわかりま須賀、実はもう一つ、天文学を前に進める車輪が見えてくるところが一番興味深かったです。著者はこういう言い方はしておらず、これは私の思いつきに過ぎないので須賀、天文学の発展に宗教が果たした役割は大きかったように感じました。

天文学と宗教(特にキリスト教)となると、天動説とガリレオのエピソードを思い浮かべる人も多いで生姜、著者が言うように、コペルニクスガリレオニュートンも、全知全能の神を信じたからこそそれぞれの宇宙観を提示し、物理学を構築することができたという側面はあるようです。もちろんガリレオやビッグバン宇宙論の時のように、宗教が「ブレーキ」をかけたように見える局面もありま須賀、科学、特に天文学の進歩に果たした役割は無視できないものがあるのだなと実感しました。

ちょっと話が逸れてしまいましたが、この本は宇宙論の本として各所で評判がよいようで、また実際、非常に平易でありながら関心や想像力を掻き立てる楽しい本でした。2冊目も空間と時間の広がりから宇宙の天体や現象を紹介していくというコンセプトで、各事象から素粒子論まで、幅広く理解できる構成になっています。

素人がひょいと選んできたにしてはお互いに内容も関連しあっていて、理解が深まるよい2冊だったと思います。

 

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予言ではなく、未来を「選ぶ」ヒントとして/『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ)

 

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

 
ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

 

『サピエンス全史』で話題になった歴史家が、「その先」に考えられる筋書きを描いた本です。歴史家らしく、古今東西の史実を織り込んだ議論になっていま須賀、論旨は単純明快です。

ホモ・サピエンスは、見知らぬ他人ともネットワークを作って協力することができたため力を手にした。しかし、生命科学とコンピューターアルゴリズムによる新たなネットワークがサピエンスそのものを凌駕した時、サピエンスはデータの奔流に飲み込まれ、テクノロジーによって「超人」化した少数の「ホモ・デウス」と、その他大勢の(AI時代に雇用のしようがない)「無用者階級」に二分化されかねないーそれが著者の問題提起であり、予測となっています。

議論としてはAIに関するシンギュラリティ論の一種と捉えることができるでしょう。

「無用者階級」という言葉はかなり衝撃的な言葉ではありま須賀、生命科学におけるいくつかの知見が示すように、サピエンスを含む生物が生化学的なアルゴリズムに過ぎないなら、「考える葦としての人間の価値」というのも、一定の能力を持つアルゴリズムか、せいぜいその「余熱」に過ぎないという主張はあり得るでしょう。これは最早、著者が言うところの「人間至上主義」から「データ至上主義」へのパラダイムシフトの可能性を示したものであり、率直に言って「これはパラダイムシフトである」と言われてしまうと*1、どう反論すればいいものか困ってしまう部分はあります。

ただ、著者は怪しげな予言者ではなく、知的謙抑を兼ね備えた歴史家でした。

未来に関する予測は、それ自体が未来に影響を与えるため実現しないことが多い*2こと、テクノロジーが全てを決める(技術決定論)わけではないことに加え、著者はこのように述べます。

歴史を学ぶ最高の理由がここにある。すなわち、未来を予測するのではなく、過去から自らを解放し、他のさまざまな運命を想像するためだ…単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を狭めるのではなく、地平を拡げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ。 

この本に書かれていることは恐らく、少なからずの人にとってグッドシナリオではないでしょう。だからこそ、今、私たちがどんな選択肢を持つことができそうか、考えるきっかけにできればいいのかなと感じました。

 

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*1:それは「お前は古いパラダイムに乗っている人間なので、理解できないだろう」と言われているのに近いので

*2:元号「光文」にまつわる騒動もこの類との説もありますね

「危機」にせり出す近代天皇/『近代天皇論』(片山杜秀、島薗進)

今日は、数少ない友人たちと最近始めた「ゆるい読書会」*1があったので須賀、不幸にして今朝、長男のインフルエンザ罹患が判明したため、物理的に出席することができませんでした。

ただ、2冊のうち1冊については私が選書に関わっていたため、途中からオンライン*2で参加させていただきました。その1冊というのがこちら。

政治学と宗教学の専門家である二人が、それぞれの観点から日本の近代と天皇のあり方について論じた本です。「平成最後の会だろうから」という安易な理由で推薦しましたw

明治政府は、「王政復古」によって「近代国民国家」化を目指すというアクロバティックな目標を掲げ、国民に「天皇の臣民」意識を持たせることで彼らを動員していきました。ただ伊藤博文ら為政者は、こうした天皇信奉の「顕教」を掲げる一方で、西洋流の立憲君主制という「密教」で国を運営していこうとしていました。

しかし、明治国家を総合的に運営してきた元老たちが、歴史の表舞台から去っていくに従って、顕教密教で制御しきれなくなり、敗戦という破局を迎えたー。

その反省から「顕教」的な理屈を封じようとしたのが象徴天皇制であり、今上天皇の退位を巡る「お言葉」は、昭和天皇人間宣言の延長線上にあるものだ、という趣旨の議論がなされています。

 

個人的に興味深かったのは、戦前と戦後における天皇の「役回り」に、一つ共通性があるように感じられたことです。そもそも、明治憲法下での各機関はかなりタコツボ的に並んでおり、上記のようにそれを統合して、国家としての意思を決める役割を担っていたのが元老たちでした。

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この本で詳述されているように、元老は憲法上の根拠のない「黒幕」*3的な立ち位置の存在でした。伊藤はその機能を枢密院に移していくことを考えていたようで須賀、自身が暗殺されてしまったこともあり、「密教」の教義を(一定以上)理解していた担い手たる「黒幕」たちは、時が流れるにつれ消えていくことになりました。

そうして、戦前日本の基本的運営原則だった「密教」が立ち行かなくなった*4際に出てきたのはもちろん「顕教」の建前で、その末に起こった破局的な戦争は、皮肉なことに天皇の「聖断」によって終えねばなりませんでした。ものすごく乱暴な言い方をすれば、天皇はこれまでのやり方でうまく行かなくなったあたりで担ぎ上げられて、その先の経緯に責任がなかったとは言えないにせよ、結局そのケツを拭くことになったのです。

対する戦後には、経済成長と福祉国家化が並行して進んだ時代がありました(日本では高度成長期、世界的には「黄金の30年」と呼ばれる時期です)。そしてまたしても、その基本路線が立ち行かなくなり、経済的格差についての「自己責任論」までが広がりを見せる中、戦災や災害で苦境に陥った人たちに寄り添う今上天皇の献身的な立ち居振る舞いがクローズアップされています。

対談では、穿った見方と断りながらも、福祉国家が解体し、経済的再分配が難しくなっている分を「天皇の慈恵」という一種のパフォーマンスで取り繕う形が生まれているのではないか、との指摘までなされています。こちらも、巨視的に見れば天皇は広がりつつある福祉国家の歪みを埋める役回りを演じているのではないか、ということです。

戦前の立憲君主制、戦後の福祉国家体制。戦前戦後のどちらも、国家の大きなデザインがうまく機能しなくなった「危機の時代」に天皇の存在感がせり出し、言わば「ケツを拭かされている」ようにも見える。対談からは、近代における天皇が(結果的に)果たした/果たしつつある役割に、そんな一側面があることが浮かび上がってくるかのようです。

完璧な国家体制や、完璧な国家体制の設計指示書(=憲法)などというものはないでしょう。大きな方向性で行き詰まった時に、天皇という存在がせり出してくるというのは、他国にはないある種の「安全装置」のように見えるかもしれません。ただその一方で、世襲でその地位が決まる天皇に対して、危機の時代における「安全装置」の役割を押し付け続けることが、果たして長期的に見て合理的な判断なのかというと、その点には疑問がなくはありません。

そう考えていくと、対談での文脈と重なるかどうかわかりませんが、「天皇の地位は国民の総意に基づく」ことを強調してやまない今上天皇の言葉には、天皇という存在が再び前へ前へと押し出されるかのような世相への、なにがしかの思いが込められているようにも思えてきます。

 

…まあご出席の皆さんは、会場が密室のカラオケボックスだったことをいいことに(?)もっと色々楽しそうな話をしていましたが(笑)、私の感想としてはこんなところといたします。それにしてもやはり、感想や思いつきを述べ会うというのはいいですね。様々な視点を得ながら、自分の思いも整理できた気がします。

 

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*1:テーマに選んだ本をきっかけにおしゃべりをする会

*2:阪神ではない方のメッセンジャーで通話

*3:実際にそう批判されました

*4:天皇機関説事件」は象徴的ですね

『日本近代史学事始め』(大久保利謙)

 

日本近代史学事始め―一歴史家の回想 (岩波新書)

日本近代史学事始め―一歴史家の回想 (岩波新書)

 

 19世紀最後の年に生まれた日本近代史の大家・大久保利謙が、その半生を語った本です。

東京帝国大学五十年史』『日本学士院八十年史』『内務省史』『森有礼全集』などの編纂に携わり、特に戦後の混乱期、爵位や財産を失った旧華族家から流出しがちだった近代史史料などの収集に尽力。現在国会図書館にある憲政資料室の設立にも貢献しました。京都の経済学部生から転じた後、▽開国以降、西洋の文明をどう取り込んでいったか▽また歴史学自体がどのように発展していったかーという関心を持ちつつ、当時の様々な歴史学者らと関わりながら、平坦でない研究生活を送ってきたことを回顧しています。

 

と、それだけ言われてもあまりピンとこない…というご意見もあるかもしれませんのでご紹介しますと、著者は「維新の三傑」とされる大久保利通の孫にあたります。ですので幼少時代から大山巌に会ったことがあったり、荒木貞夫とのツーショット写真が残っていたり、叔父にあたる牧野伸顕と長い交流があったりしていますし、そうした家庭環境の証言自体も、近代史を紐解く上で重要なものになっています。また、史料集めの際も、華族(侯爵)としての交際があったことや「維新の三傑」の孫であった*1ことがプラスに働いたことは、著者自身も認めるところです。

ただその一方で、だから近代史をやったわけではなさそう(少なくとも著者はそう言っていない)、というところが、一つ興味深い部分でもあります。経済学への関心を持ちつつ、その時点では少し遠回りをして歴史の勉強をし直す。そうやって自ら選び取った道であるからこそ、90歳を過ぎるまで研究生活を続けられた*2のだろうと感じます。

私も案の定、著者の出自に関心を持ってこの本に手を伸ばした一人でありま須賀、回顧の具体的内容以上に、そういう著者の生き様に温かい気持ちにさせられました。

 

いつもありがとうございます。

 

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*1:内務省史』に関わったのも、初代内務卿との関係が作用しているようです

*2:この本が出版される前後に95歳で亡くなられました