かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
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予言ではなく、未来を「選ぶ」ヒントとして/『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ)

 

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

 
ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

 

『サピエンス全史』で話題になった歴史家が、「その先」に考えられる筋書きを描いた本です。歴史家らしく、古今東西の史実を織り込んだ議論になっていま須賀、論旨は単純明快です。

ホモ・サピエンスは、見知らぬ他人ともネットワークを作って協力することができたため力を手にした。しかし、生命科学とコンピューターアルゴリズムによる新たなネットワークがサピエンスそのものを凌駕した時、サピエンスはデータの奔流に飲み込まれ、テクノロジーによって「超人」化した少数の「ホモ・デウス」と、その他大勢の(AI時代に雇用のしようがない)「無用者階級」に二分化されかねないーそれが著者の問題提起であり、予測となっています。

議論としてはAIに関するシンギュラリティ論の一種と捉えることができるでしょう。

「無用者階級」という言葉はかなり衝撃的な言葉ではありま須賀、生命科学におけるいくつかの知見が示すように、サピエンスを含む生物が生化学的なアルゴリズムに過ぎないなら、「考える葦としての人間の価値」というのも、一定の能力を持つアルゴリズムか、せいぜいその「余熱」に過ぎないという主張はあり得るでしょう。これは最早、著者が言うところの「人間至上主義」から「データ至上主義」へのパラダイムシフトの可能性を示したものであり、率直に言って「これはパラダイムシフトである」と言われてしまうと*1、どう反論すればいいものか困ってしまう部分はあります。

ただ、著者は怪しげな予言者ではなく、知的謙抑を兼ね備えた歴史家でした。

未来に関する予測は、それ自体が未来に影響を与えるため実現しないことが多い*2こと、テクノロジーが全てを決める(技術決定論)わけではないことに加え、著者はこのように述べます。

歴史を学ぶ最高の理由がここにある。すなわち、未来を予測するのではなく、過去から自らを解放し、他のさまざまな運命を想像するためだ…単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を狭めるのではなく、地平を拡げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ。 

この本に書かれていることは恐らく、少なからずの人にとってグッドシナリオではないでしょう。だからこそ、今、私たちがどんな選択肢を持つことができそうか、考えるきっかけにできればいいのかなと感じました。

 

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*1:それは「お前は古いパラダイムに乗っている人間なので、理解できないだろう」と言われているのに近いので

*2:元号「光文」にまつわる騒動もこの類との説もありますね

「危機」にせり出す近代天皇/『近代天皇論』(片山杜秀、島薗進)

今日は、数少ない友人たちと最近始めた「ゆるい読書会」*1があったので須賀、不幸にして今朝、長男のインフルエンザ罹患が判明したため、物理的に出席することができませんでした。

ただ、2冊のうち1冊については私が選書に関わっていたため、途中からオンライン*2で参加させていただきました。その1冊というのがこちら。

政治学と宗教学の専門家である二人が、それぞれの観点から日本の近代と天皇のあり方について論じた本です。「平成最後の会だろうから」という安易な理由で推薦しましたw

明治政府は、「王政復古」によって「近代国民国家」化を目指すというアクロバティックな目標を掲げ、国民に「天皇の臣民」意識を持たせることで彼らを動員していきました。ただ伊藤博文ら為政者は、こうした天皇信奉の「顕教」を掲げる一方で、西洋流の立憲君主制という「密教」で国を運営していこうとしていました。

しかし、明治国家を総合的に運営してきた元老たちが、歴史の表舞台から去っていくに従って、顕教密教で制御しきれなくなり、敗戦という破局を迎えたー。

その反省から「顕教」的な理屈を封じようとしたのが象徴天皇制であり、今上天皇の退位を巡る「お言葉」は、昭和天皇人間宣言の延長線上にあるものだ、という趣旨の議論がなされています。

 

個人的に興味深かったのは、戦前と戦後における天皇の「役回り」に、一つ共通性があるように感じられたことです。そもそも、明治憲法下での各機関はかなりタコツボ的に並んでおり、上記のようにそれを統合して、国家としての意思を決める役割を担っていたのが元老たちでした。

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この本で詳述されているように、元老は憲法上の根拠のない「黒幕」*3的な立ち位置の存在でした。伊藤はその機能を枢密院に移していくことを考えていたようで須賀、自身が暗殺されてしまったこともあり、「密教」の教義を(一定以上)理解していた担い手たる「黒幕」たちは、時が流れるにつれ消えていくことになりました。

そうして、戦前日本の基本的運営原則だった「密教」が立ち行かなくなった*4際に出てきたのはもちろん「顕教」の建前で、その末に起こった破局的な戦争は、皮肉なことに天皇の「聖断」によって終えねばなりませんでした。ものすごく乱暴な言い方をすれば、天皇はこれまでのやり方でうまく行かなくなったあたりで担ぎ上げられて、その先の経緯に責任がなかったとは言えないにせよ、結局そのケツを拭くことになったのです。

対する戦後には、経済成長と福祉国家化が並行して進んだ時代がありました(日本では高度成長期、世界的には「黄金の30年」と呼ばれる時期です)。そしてまたしても、その基本路線が立ち行かなくなり、経済的格差についての「自己責任論」までが広がりを見せる中、戦災や災害で苦境に陥った人たちに寄り添う今上天皇の献身的な立ち居振る舞いがクローズアップされています。

対談では、穿った見方と断りながらも、福祉国家が解体し、経済的再分配が難しくなっている分を「天皇の慈恵」という一種のパフォーマンスで取り繕う形が生まれているのではないか、との指摘までなされています。こちらも、巨視的に見れば天皇は広がりつつある福祉国家の歪みを埋める役回りを演じているのではないか、ということです。

戦前の立憲君主制、戦後の福祉国家体制。戦前戦後のどちらも、国家の大きなデザインがうまく機能しなくなった「危機の時代」に天皇の存在感がせり出し、言わば「ケツを拭かされている」ようにも見える。対談からは、近代における天皇が(結果的に)果たした/果たしつつある役割に、そんな一側面があることが浮かび上がってくるかのようです。

完璧な国家体制や、完璧な国家体制の設計指示書(=憲法)などというものはないでしょう。大きな方向性で行き詰まった時に、天皇という存在がせり出してくるというのは、他国にはないある種の「安全装置」のように見えるかもしれません。ただその一方で、世襲でその地位が決まる天皇に対して、危機の時代における「安全装置」の役割を押し付け続けることが、果たして長期的に見て合理的な判断なのかというと、その点には疑問がなくはありません。

そう考えていくと、対談での文脈と重なるかどうかわかりませんが、「天皇の地位は国民の総意に基づく」ことを強調してやまない今上天皇の言葉には、天皇という存在が再び前へ前へと押し出されるかのような世相への、なにがしかの思いが込められているようにも思えてきます。

 

…まあご出席の皆さんは、会場が密室のカラオケボックスだったことをいいことに(?)もっと色々楽しそうな話をしていましたが(笑)、私の感想としてはこんなところといたします。それにしてもやはり、感想や思いつきを述べ会うというのはいいですね。様々な視点を得ながら、自分の思いも整理できた気がします。

 

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*1:テーマに選んだ本をきっかけにおしゃべりをする会

*2:阪神ではない方のメッセンジャーで通話

*3:実際にそう批判されました

*4:天皇機関説事件」は象徴的ですね

『日本近代史学事始め』(大久保利謙)

 

日本近代史学事始め―一歴史家の回想 (岩波新書)

日本近代史学事始め―一歴史家の回想 (岩波新書)

 

 19世紀最後の年に生まれた日本近代史の大家・大久保利謙が、その半生を語った本です。

東京帝国大学五十年史』『日本学士院八十年史』『内務省史』『森有礼全集』などの編纂に携わり、特に戦後の混乱期、爵位や財産を失った旧華族家から流出しがちだった近代史史料などの収集に尽力。現在国会図書館にある憲政資料室の設立にも貢献しました。京都の経済学部生から転じた後、▽開国以降、西洋の文明をどう取り込んでいったか▽また歴史学自体がどのように発展していったかーという関心を持ちつつ、当時の様々な歴史学者らと関わりながら、平坦でない研究生活を送ってきたことを回顧しています。

 

と、それだけ言われてもあまりピンとこない…というご意見もあるかもしれませんのでご紹介しますと、著者は「維新の三傑」とされる大久保利通の孫にあたります。ですので幼少時代から大山巌に会ったことがあったり、荒木貞夫とのツーショット写真が残っていたり、叔父にあたる牧野伸顕と長い交流があったりしていますし、そうした家庭環境の証言自体も、近代史を紐解く上で重要なものになっています。また、史料集めの際も、華族(侯爵)としての交際があったことや「維新の三傑」の孫であった*1ことがプラスに働いたことは、著者自身も認めるところです。

ただその一方で、だから近代史をやったわけではなさそう(少なくとも著者はそう言っていない)、というところが、一つ興味深い部分でもあります。経済学への関心を持ちつつ、その時点では少し遠回りをして歴史の勉強をし直す。そうやって自ら選び取った道であるからこそ、90歳を過ぎるまで研究生活を続けられた*2のだろうと感じます。

私も案の定、著者の出自に関心を持ってこの本に手を伸ばした一人でありま須賀、回顧の具体的内容以上に、そういう著者の生き様に温かい気持ちにさせられました。

 

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*1:内務省史』に関わったのも、初代内務卿との関係が作用しているようです

*2:この本が出版される前後に95歳で亡くなられました

「悲劇」を超えた豊かな写真表現/『border|korea』(菱田雄介)

 

border | korea

border | korea

 

 見開きの左右で、南北朝鮮の人物や風景を対比させて表現した写真集です。生後間もない赤ちゃんから子供、バンド少女、老人、そして海水浴場や雨の地下鉄出口、両側から見た板門店、政治的な場所まで、似たカットを左右に配置して比べる手法を貫いています。

平壌とソウル、そして板門店も両側から訪ねたことがあり、

canarykanariiya.hatenadiary.jp

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なんとなく両方の街並みや人々の雰囲気を感じながらページをめくることができました。

最後の方に書かれた短い文から察するに、作者の意図としては、70年ほど前に恣意的に引かれた国境線のせいで、同じように生まれた赤ちゃんがそれぞれ別の価値観の中で育ち、全く別の社会を構成していくことになることを、問題提起的に描きたいということがあるようです。

確かに恣意的に引かれた国境が、その後の戦禍も含めてどれだけの悲劇を生み出したかは論を俟たないところではありま須賀、個人的には、この作品からそれだけ受け取るのはもったいないかなという気がしました。

赤ちゃん以外にも似ていると感じる部分はありますし、そうでない部分もあります。経済的に韓国の方が豊かで、夜景も光に満ちていま須賀、カメラに笑顔を向けているのは、北朝鮮の人の方が多い印象を受けました(もちろんこれは「北朝鮮の人の方が幸せな生活を送っている」という趣旨ではありません。外国人からカメラを向けられた時にどう反応するか、は、文化的要因や日頃外国人とどのくらい接してきているかなどに依存するでしょう)。

そういう「南北の異同」、あるいは人によっては「人類の普遍性」までをも感じ得る豊かな内容を表現している写真集だ、と私は思います。作者もそういうあたりまで意図しているんじゃないか、とは感じましたが、「悲劇性」を踏まえつつも、その先に広がる豊かな表現を楽しめる作品だと思います。

 

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プラットフォームの責任、新聞社の責任/『情報戦争を生き抜く』(津田大介)

 

インターネットやソーシャルメディアが普及し始めた当初、新聞の輪転機やテレビの放送設備を持たない市民が情報発信や交流の機会を持つことは、民主主義を鍛え、社会をよりよくすると多くの人が考えていました。

もちろんそれらが、そうした期待通りに機能した例*1も世界的に多くありま須賀、近年はネット上のコミュニケーションの問題点の方が目立つようになってきました。ネット炎上、(多くは誤った)コピペ記事、ヘイトスピーチフェイクニュースなどのことです。

(意外なほど多くが経済的動機でなされる)一部の悪意ある発信や、それをそうとは知らずに拡散させてしまう行為*2によって、そうした情報が氾濫する中、その「舞台」となっているTwitterFacebook、日本ならYahoo!といったプラットフォーム企業には責任はないのでしょうか。特定の書き込みを消去し、他のものを残す判断をしているプラットフォーム企業の行為は、まさにメディアにおける編集行為と変わらないのではないか、とすれば、フェイクニュースヘイトスピーチを放置することは、メディアとしての責任を果たしたことにならないのではないかーこのような批判が強まっています。

一方で、存在感でもビジネス面でもプラットフォーム企業に差をつけられ続ける既存メディアは、情報技術の進歩をどう取り込み、「情報戦争」をどう生き抜こうとしているのか…

 

この本はこうした問題意識から、2016〜18年の雑誌連載を元にまとめられた本です。当然時事的な話題が多いで須賀、その中でも上記のような大きな構造が掴めるようになっており、非常に勉強になりました。一つ一つのテーマや現象も興味深かったで須賀、現在のメディア状況について著者は、このように総括しています。

現在起きている情報戦争の本質とは何か。それは、ソーシャルメディアの影響力がマスメディアを超えつつあることで、事実が軽視されるようになり、その結果として、論理や理屈よりも感情が優越し、分断の感覚が増大しているということである…(中略)…情報戦争は、プラットフォーム事業者の隆盛と、資本の論理によって起こされている。 

 そしてその現状への対抗策として、4つの方法を示しています。

・「技術」で解決する・・・AIなどを活用し、フェイクニュースヘイトスピーチを抑え込む

・「経済制裁」で解決する・・・問題のあるサイトに広告が出ないよう「兵糧攻め」にする

・発信者情報開示の改善で解決する・・・「書き込んだ者勝ち」の現状を改める

・「報道」で解決する・・・報道機関などがファクトチェックを通じてフェイクに対峙する

 

私は今年度(あと2カ月半)、新聞社からネットニュースを扱う会社への出向を経験しています。

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1年弱いたからといってその道の専門家になれるわけでも、特効薬のようなアイデアを思いつくわけでも(残念ながら)なさそうですけれども、新聞社が旧態依然の情報発信を続けているだけではいけないと思う一方、著者の言うように、フェイクニュースの飛び交う今だからこそ、民主主義を鍛える良質な報道を目指していかなければならないと日々感じています。新聞社の取材・制作過程にも構造的な問題はもちろんありま須賀、日本においては未だ、高い取材力を持つ組織でありつづけています。

紙の新聞や特定の新聞社ではなく、民主主義を支える報道機関と民主的な社会がこの「情報戦争を生き抜く」にはどうすればいいのか、今の職場でもう少し考えていきたいと思っています。

 

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*1:アラブの春#MeToo

*2:恥ずかしながら、私も経験があります

母との確執とカトリック改宗/『「昭和天皇実録」を読む』(原武史)

「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

 

 公開された「昭和天皇実録」の記述などから見える人間・裕仁のエピソードを紹介する本です。

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こちらでは昭和天皇の政治的なスタンスや振る舞いについて論じられていましたが、この本では生育環境や心情のようなところから、昭和天皇の言動を読み解いていきます。

後宮改革や虎ノ門事件など、色々と興味深い仮説が提示されていま須賀、特に注目すべきは2点あったかとおもいます。

まずは、昭和天皇と母・貞明皇后との確執です。神道への信心が深かった貞明皇后昭和天皇の態度に不満を持っており、特に裕仁摂政時代、貞明皇后はどうやら自分が天皇になることを意識していたフシがあるのだそうです。

細かく言えば、正統な天皇に誰をカウントするかが固まったのがこの時期だそうで、「女帝」と称されることもあった神功皇后天皇とみなされるかどうかは、貞明皇后の即位というシナリオが生じるかどうかの言わば「代理戦争」的な意味合いがあったのではないかと著者は論じます。符合するように、神功皇后天皇と認められないことが確定した日の翌日、貞明皇后は自らの遺書を書いているといいます。

また、貞明皇后疎開させることで政治から遠ざけるべく、まさに終戦前後の時期に高松宮夫妻と秩父宮夫妻が会合を持っていたようだということも指摘しています。香淳皇后との間に「嫁姑」的な問題もあったといい、この辺の人間模様の生々しさは印象的でした。

もう一つは、戦後に昭和天皇カトリックに改宗する可能性があったということです。これは当時、あちこちで報道もされていたことなのだそうです(知らなかった)。

政治的な事情で退位が叶わないなら、神道に対する悔悟も込めて個人的に神道を捨て、改宗することでけじめとしよう。独立回復までの時期にカトリック関係者に接近したのには、そのような思いがあってのことではないかと推測しています。これもまた非常に興味深い指摘だと思いま須賀、サンフランシスコ条約以降、急にこの「カトリック熱」が醒めてしまうのは現金というか何というか、個人的にはその辺の経緯を読み解けるとより面白いのかなという気がしました。

 

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改元前にオススメの一冊/『元号』(所功、久禮旦雄、吉野健一)

 

元号 年号から読み解く日本史 (文春新書)

元号 年号から読み解く日本史 (文春新書)

 

日本の元号について、その歴史をまとめた本です。

もともと元号を使い始めたのは中国・前漢武帝だったとされま須賀、その経緯から説き始め、日本最初の「大化」からその歴史を紐解いていきます。

傾向として奈良時代は縁起がよいとされることをきっかけにした改元が多かったが、次第に災害や疫病・兵乱などの「厄払い」的な改元が主になること、鎌倉幕府から始まる武家が徐々に関与を強めていく様子、明治以降の一世一元下での運用や戦後占領期の廃止をめぐる議論など、興味深い内容が多く収められています。また、南北朝時代はどちらの年号を使うかが政治姿勢の表明になっていたり、その延長線上で戦国時代の東国では独自の年号の使用や、京でなされた改元を無視することが横行したこと、時代ごとの年号の定め方に当時の政治のあり方(朝廷と幕府の関係など)が反映されていたことなどを見ていくと、「年号から読み解く日本史」という表題も頷けるものでした。

今年は5月1日に改元、4月1日にその新年号が発表されることになっています。この本では、次の元号はこれまでに候補になったことのあるもの(=中国古典からとったもの)から選んでよいのではないかとの立場が表明されていま須賀、実際どうなるでしょうか。一方で、十七条憲法万葉集などの日本の古典から元号をとることを主張する学者もいるそうです。漢字圏にあり、豊かな中国古典の蓄積を活用できる元号も素晴らしいと思いま須賀、(あまりそれ一辺倒では困りますけれども)日本文学の恵みを生かしたものにするのも一興かなと思います。

いずれにせよ、4月の発表を控えて読んでおくと楽しい本だと思います。

 

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